2021-10-01から1ヶ月間の記事一覧

レゴブロックの像を追う

わたしの語ることばは、必ずしもわたしの本心とは限らない。 ほとんどのことばは意味を持つ。意味という海原の広さはさまざまだが、とにかく、ことばはほとんどの場合、なにかの内容の共有のために発される。 だが同時に、ことばは形式だ。わたしたちはとり…

ことばのダンスに身を任せ

わたしのことばは、必ずしもわたしのものだとは限らない。 ことばはあくまでデータだ。とくにコンピュータ上では、およそどんなことばだって、元をたどればただのゼロとイチの列に過ぎない。偉大な文豪の作品も、このしがない日記も、どちらもまったく同じ手…

記号列を語る

わたしが発することのできることばは、原理上、わたしのことばだけではない。 もちろん、誰かがわたしの脳を操っているなどと言いたいわけではない。わたしはわたしを正常だと信じているし、そもそもオカルトに興味はない。たしかに原理上では、わたしのこと…

形式的言語実験

わたしはわたしのことばだけを語りたい。すくなくとも、ここではそうしてきた。 さて、ことばとは偉大なシステムである。それは定説によれば、ひとの思考を規定すしている。ひとは言う、人間の思考とは、すべてことばによってなされるものなのだ、と。だから…

異常性という常識

ここ数回の日記で、わたしは常識というものの性質について書いてきた。書いたことをまとめれば、以下のようになる。 まず常識とは、世の中のひとが従うべきだとされている、暗黙のルールのことだ。ルールだが、法や契約と違い、はっきりと明文化されていない…

常識を定義する

常識とは、ゆるやかな価値観の連帯だ。 わたしたちは、常識という社会の目に縛られている。誰かが非常識な行動をしたなら、そのひとはまわりのひとたちに、ルールを破ったとして糾弾されることになる。たとえそのルールが、法律にも契約書にも書かれていなか…

マイルールの取捨選択

常識とは、個々人の決めたルールのことだ。 世の中にはさまざまなルールがある。法は遵守せねばならない、交わした約束は守らねばならない。あるいはだれかの誕生日には、贈り物をせねばならない。明文化されたものからそうでないものまで、ルールはいたると…

不文律と錯覚

ひとはみな、いろいろなことをやらされている。 ひとは社会生活をいとなむ生き物だ。いくら社会を嫌おうが、隠遁者じみた生活を送ろうとしようが、それでもひとは社会からは逃げられない。 いや、逃げられないというのは正確ではないかもしれない。なぜなら…

拝啓 見え透いたハッタリの受け手へ

研究はいつも、その意義とセットにされる。 論文を書くとき、研究者はまず最初に、その研究の意義を書く。執筆の時系列としては最後かもしれないが、とにかく論文の最初の部分に、なぜその研究をするのかをしたためる。 なぜそんなものを書くのかは、いまだ…

不誠実性への復帰

日記において、誠実さは悪である。 「ストーリーテリングにおいて、誠実さは悪である」――こんな書き出しで、わたしは昨日の日記をはじめた。そこでわたしは、ストーリーの面白さとは意外性だということ、そして意外性は不誠実な語りによって実現されることを…

誠実は悪である

ストーリーテリングにおいて、誠実さは悪だ。 ストーリーを読むとき、読者は、その先の展開を予想しながら読む。読者の頭の中には、ストーリーのどの時点でも、そのとき与えられている情報に照らし合わせてもっともそれらしい結末が居座っている。主人公が上…

認識と認識の不協和音

わたしはおそらく、人前で話すのが苦手だ。 きのうも述べた通り、それはわたしが気弱だったり、恥ずかしかったりするからではない。むしろはんたいに、発表を苦にしないくらいには、わたしは気が強いつもりだ。さらに言えば、ミスを指摘されても堂々と話しつ…

見えない穴を見ようとして

わたしはおそらく、人前で話すのが苦手だ。 といっても、べつに話すのが恥ずかしいわけではない。委縮して、ことばが出なくなるわけでもない。むしろその逆で、大声で堂々と話すことについて、わたしに不安はまったくない。 それどころか、話すのが嫌いなわ…

語りの場のハードル

ハッタリを語るのは、ハッタリを書くよりもはるかに難しい。 わたしはこれまで、何度もハッタリの申請書を書いてきた。大学院の願書や、某予算の選考のために。そんな書類でわたしは、わたしの研究がいかに役立つか、あるいはいかに素晴らしい分野を切り拓く…

嘘のばれる詐欺師

わたしは、わたしのことばだけを語りたい。 研究は、しかし、わたしのそんなわがままを認めてはくれない。論文のイントロダクションで、あるいは予算の申請書で、わたしは研究の公益性だとか発展性だとかを書かされる。そのどちらにもわたしは興味がなく、し…

ハッタリと正義

わたしは、わたしのことば以外を語りたくない。 最近書いてきたとおり、おおかたの場合、わたしはわたしのことばだけを語る。世の中がこうなる前だってそうだったが、最近ではさらに顕著だ。わたしは、わたしのことば以外を語らねばならぬ相手と、そもそも語…

嘘はついてない

わたしは、つねにわたしのことばだけを語りたい。 わたしのことばを語るためには、つねにわたし自身に耳を傾けている必要がある。他人のことばをわたしは受け入れることもあるが、それを発言するのはわたしが納得してからにするべきだ。わたしは、他人のこと…

自分語りの真実

わたしは、つねにわたしのことばを語っていたい。 おおくの場合、わたしはわたし自身に正直なことばを語る。すくなくとも、そうあるように気を付けている。どんな話題に関しても、理想を言えばわたしは、わたしが腰を据えて考えて出した結論だけを語り続けて…

行き過ぎた摂動の行先で

わたしは、わたしを分析する。この数年間、わたしはそうやって生きてきた。 とはいえ、わたしを定義づけるのはその分析結果ではない。わたし自身に分析されてもされなくても、わたしはやはりわたしだ。わたしはわたしに興味があるが、たとえまったくの興味が…

新規のエミュレータ

わたしは自分を理解したい。そして、自分を理解するのと似たような方法で、他者をも理解したい。 わたしがしたいのはわたしの、あるいは他者の、精密なエミュレータをつくることだ。わたしの理想的な姿は、未知の状況で、誰がどうふるまうかを完全に予測でき…

他者理解の最高到達点

わたしは、わたしを理解するのが好きだ。 世の中には、未知のものがたくさんある。そんなものに触れたとき、ひとはしばしば、自分でもとうてい予想できなかった行動をする。そしてそのとき、ひとは初めて、自分の知らなかった自分自身の姿に直面する。 だが…

セルフ・エミュレータ

わたしは、わたしについて考えるのが好きだ。その趣味が高じて、わたしはこんな日記をつづけてきた。 といっても、わたしはわたしが好きなわけではない。分析において、自己肯定はただ、わたしの視野を狭くするだけだ。わたしはいまのわたしを、絶え間ない現…

嘘と真実の波間で

ここ数年間ずっと、わたしはわたしに興味がある。 その興味は、じっくりとした積み重ね式のものだ。それは基礎科学の研究者がひとつの「なぜ」に向き合うのにも似て、わたしの心の中に、たえず形を変えながら存在し続けている。じぶんの研究にこそその種の興…

答えを急ぐこと

昨日は、わたしの好奇心の性質について書いた。それはとても気まぐれで、長続きしないものだ。そしてそれは、世の研究者たちが言う、研究を前に進めるための好奇心とは似て非なるものだろう。 さて、そんなわたしにも、長続きしているものがある。たとえば、…

気まぐれな好奇心

自然科学を前に進める力は、好奇心だ。 判で押したように、著名な科学者たちはそう言っている。 すくなくとも、メディアはそう聞こえるように、発言を切り取っている。あるいはツイッター論客たちは、この時期がくるごとにそういうことばをありがたがって、…

思い付きを書き留める

世の中に表現形態はたくさんあるが、もっとも論理的な形態は文章だろう。 文章には、およそことば以外のものはなにもない。文章には絵画のように、一目でひとを釘付けにする模様の鮮やかさもない。文章には音楽のように、無意識のうちに身体のすみずみにまで…

約束と利益と侵害と

約束とは、互いの自由を差し出す行為である。 たとえばわたしが、そうだなぁ、創作の世界でよくあるように、友達と映画を見に行く約束をしたとしよう。そんな約束はステレオタイプで、現実にはなかなか存在しないが、これはわたしの感想文なのだからどうでも…

論理性好き放題プラン

論理とは万能の道具である。 どんな主張だって、論理的に説明することはできる。たとえば、たとえば……ワクチン接種の是非について。これを読んでいるひとのほとんどは接種に賛成だろうから、あらかじめ断っておくと、わたしはもう接種を受けた。だが、反対す…

利己的な利他容認

ゲーム理論とは、複数のひとの行動をモデル化して扱う学問だ。そこでは、ひとの行動が引き起こす結果が、各々が合理的に行動すると仮定して解析されている。 たとえば、有名な囚人のジレンマ。ふたりの囚人が登場するそのゲームでは、獄吏はそれぞれの囚人に…

ご都合主義に身を捧げよ

今日は疲れたので、日記は軽く済ますことにする。 ここ数日わたしは、わたしが意見を持つということについて書いてきた。今日は新しく何かを考える気力がないから、かわりにその議論をまとめなおしてみることにしよう。 まず、政治や環境問題といった世の中…