嘘のばれる詐欺師

わたしは、わたしのことばだけを語りたい。

 

研究は、しかし、わたしのそんなわがままを認めてはくれない。論文のイントロダクションで、あるいは予算の申請書で、わたしは研究の公益性だとか発展性だとかを書かされる。そのどちらにもわたしは興味がなく、したがって、そこにわたしのことばは書かれえない。

 

だがわたしに、その枠を消す権利はない。だからわたしのことばが書けないのなら、わたしのものでないことばで埋めるしかない。わたしが実際に思っているわけではないが、とりあえず、その枠を埋めるのには足る虚構で。

 

もしわたしの研究が先行研究に基づいているなら、わたしには先人の受け売りを語る選択肢がある。公益や発展についてわたしが無関心なのなら、関心を持っているひとに語ってもらえばいいのだ。より正確を期すならば、関心を持っているか、あるいはそのふりをしているひとに。

 

もっともそんなことばは、とうてい納得できるものではない。研究の公益性も発展性もハッタリに過ぎない以上、わたしにそのことばは空虚だ。だが、それはまったく構わない。そもそもその枠は、わたしが空虚だとは思わないことばでは埋められないからだ。

 

あるいは、わたしがいちから、まるきりの創作を語ってもよい。そしてそれは、うがった見方をすれば、研究者として褒められた態度だ。実のところ、わたしがなにを書こうが、ウソにはならない。イントロダクションに書くべきものは、現在の冷静な分析ではなく、好き勝手な未来の予想図なのだから。

 

そしてそれならば、わたしの腕の見せ所だ。じっさいの成果というお題を与えられて、さながら参加者一人の創作コンテストのように、わたしはそれらしき物語をでっちあげる。物語の評価基準はふたつ。面白いかどうかと、わたしの成果と関連しているかどうかだ。

 

さて。では、仮に良い創作ができたとして。

わたしはそれを、自信をもって語れるだろうか?

 

研究において、語りの手段は文章だけではない。学会で、面接で、わたしはわたし自身の口から、わたしのハッタリを語らねばならない。飛んでくる質問の矢を、統一された論理で、即座に打ち返さねばならない。

 

そしてそれは、書面にハッタリを記すこととは本質的に異なる。書面では、ハッタリは通じる相手にのみ通じればよかった。イントロダクションじたいを無価値だと考える同類と、わたしのイントロダクションを信じる馬鹿以外は、統計的小数として切り捨てればよかった。だが話すとき、わたしは目の前の相手を納得させねばならない。

 

そして残念ながら、本当に納得させねばならぬ相手は、おおかたの場合、同類でも馬鹿でもない。

 

だからおそらく、わたしの嘘はすぐばれる。わたしがほんとうは、公益も発展も、まったく理解していないことを。わたしは勝てない戦いはしたくない。だが、戦わないわけにもいかないのだ。

 

わたしはわたしのことばだけを語りたい。だからこそ、わたしは嘘をつくのに慣れていない。きわめて格好悪いことだが、わたしにもっとも不向きな職業は詐欺師だろう。

 

どんな嘘も、語り続ければ真実になる。だからわたしがすべきは、嘘とばれている嘘を貫き通すことだ。わたしにも相手にも、とことん不誠実であり続けることだ。

 

だがいまのところ、わたしにそれはできそうにない。訓練すればできるのかもしれないが、どう訓練するのかもわからない。ひとを好き放題に騙せる人間にはもちろん憧れるが、わたしにその素質がないことだって分かっている。

 

ではどうすればいいのか、それは分からない。ひとつだけ確かなことは、わたしは嘘で勝負しない方がいいということだ。そしてもっとも手っ取り早い対処法は、ハッタリの土俵に引きずり込まれないだけの、客観的な成果なのだろう。