ご都合主義に身を捧げよ

今日は疲れたので、日記は軽く済ますことにする。

 

ここ数日わたしは、わたしが意見を持つということについて書いてきた。今日は新しく何かを考える気力がないから、かわりにその議論をまとめなおしてみることにしよう。

 

まず、政治や環境問題といった世の中の大きな問題に関して。そんな問題は大規模すぎて、わたしの意見はまず通らない。だからそんな大事には、わざわざ首を突っ込んでも仕方ない。だから、意見など持っても仕方がない。

 

他人の意見も同様だ。わたし以外のだれかだって、わたしと同じようにちっぽけだから、そんな誰かの意見が世の中を変えることなどありえないのだ。もっとも、ほかの誰かの意見にわたしは興味を持ったり、納得できる説明を求めたり、カマをかけてみたりはするしれない。だが断じて、評価したり断罪したりする気はないのだ。

 

だがわたしはそれでも、あれこれと考えるのは好きだ。そして世の中は絶えず、あれこれと考えるためのテーマをわたしに提供してくれる。わたしはわたしの興味にしたがって考え、そしてその副産物として、わたしは意見を持ってしまう。

 

わたしはいろいろな側面を考えているつもりだから、その意見は、対立する複数の意見の重ね合わせかもしれない。だから仮に、わたしが実現を求めるなら、わたしはわたしのなかの矛盾に苦しむだろう。だがわたしはわたしの意見の実現など求めない。だから、矛盾したどっちつかずの態度でも、なんの問題も起こらないのだ。

 

では、研究や事務手続きと言った、身の回りのローカルな問題に関して。大きな問題と同様、これらもまた面白いコンテンツには違いないだろう。規模こそ小さいが、逆にわたしは、それらを高い解像度で眺めることができる。だから本来、わたしの好奇心は、絶え間のない実験的目線でわたしのまわりをも見つめているはずだ。

 

だが身の回りの問題には、わたしの利害が絡んでくる。わたしはまわりを変えることはできないかもしれないが、とはいえ、普段からその中で行動している。そしてわたしは残念ながら、意見とまるきり逆の行動をとれるようにはできていない。

 

というわけで、わたしの選択肢はふたつ。意見に合わせて行動を変えるか、突拍子もない意見に飛びつくのをセーブするかだ。そして、前者は筋が悪い。好奇心に基づくわたしの意見は、しばしば実行不可能だったり、攻撃的過ぎたり、能天気すぎたりするからだ。

 

だからわたしは、わたしのまわりに関して、穏当な意見を探している。わたしが納得できるが、わたしの行動とは矛盾しないような。バランスの取れた意見を、後付けのご都合主義を、みずからを正当化するための論理を。

 

そして、わたしはその態度を恥じてはいない。

 

わたしに信念はない。あるとすればそれは、信念など持たぬべきだという信念だ。わたしの理想とは、どんな突拍子もない思想をも対等に尊重することだ。ひとがどんな思想を持っていようが、それにいかなる評価も与えないことだ。そしてそこからどれを選び抜くかを、あるいはどれも選ばないかを、わたし自身の都合で決めることだ。

 

わたしの意見は自由だ。そして自由とは、わたしにすら縛られないという意味ではない。わたしはどんな意見を持ってもよく、そしてそれは、どんなにくだらない原理に基づいていてもよい。

 

そしてもし、意見を変えるべきときが来たなら、これまでの発言や、態度などすべて脱ぎ捨てて、ご都合主義に身をゆだねればよいだろう。わたしの都合は変わっていくし、なにより、過去のわたしとは他人に過ぎないのだ。