嘘はついてない

わたしは、つねにわたしのことばだけを語りたい。

 

わたしのことばを語るためには、つねにわたし自身に耳を傾けている必要がある。他人のことばをわたしは受け入れることもあるが、それを発言するのはわたしが納得してからにするべきだ。わたしは、他人のことばを繰り返すオウムにはなりたくない。

 

だからわたしの行動の根拠は、つねにわたしの感情や理性によるべきだ。まわりの空気に、わたしは流されてはならない。わたしの置かれた立場に、わたしの意見は曲げられてはならない。あるいは、すわりのよいことばの魅力に、わたしは屈してはならない。

 

だが現実はそうはいかない。わたしがいかにまわりの空気に流されたくなかったとしても、それはいまこの場の空気を読まなくてよい理由にはならない。わたしが怒られているなら、火に油を注ぐような真似はよすべきだ。その場にぴったりなことばを見つけたならば、わたしの本来の葛藤をいったん無視して、当意即妙にそれを語って見せたほうがよい場面だってある。

 

そんなときわたしは、どうにかわたし自身に大きな嘘をつかないように努力する。わたしが空気を読んでいるとき、それはたいていの場合、中身のあることを発言しないことで実現される。わたしはたしかに本当のことを言ってはいないが、嘘だってついていない。そしてその場がひとしきりおさまったあと、もし誰かに正直な感想を話せるのなら、それがわたしに達成できる最大限の成功というものだろう。

 

怒られているときだってそうだ。といっても、わたしが怒られるときはたいていわたしに非があるから、そもそもわたしは後ろめたくて、あまり大したことを言う気にはならない。だがそれでもわたしは、自分が思ってもいない反省を口にしたりはしない。不本意な、相手の思い通りの答えを返すより、物分かりの悪いふりをして耐えることをわたしは選んできた。

 

その場にちょうどよいことばの誘惑にかられたとき、わたしはたしかに、本心とは異なるなにかを言っているだろう。だがその違いは、いつも些細だ。他人の口を経由すれば、わたしのことばはそう伝わりそうなくらいに。それでも不安ならわたしは、本心と異なる旨の補足を入れている。知らんけど、そんなことばで。

 

このようにたいていの場合、わたしはわたしを、本心ではない何かを語ることから守り続けられる。最初のふたつの例では、沈黙によって。最後の例では、ときおり笑いによってかき消される補足によって。わたしはすくなくとも、わたし自身に嘘をついてはいないつもりだ――わたしが許容できる、ほんのわずかな常識と脚色を除いて。

 

本心を語るのは困難が伴う。だが本心を語ることと同じくらい、本心以外を語らないことは重要だ。わたし自身を、わたしは本心を分析することで愛してきた。わたしに似ているひとたちと、わたしは本心を語ることで距離を詰めたつもりだ。そしてその人たちを、より重要にはわたしを、幻滅させてはならない。

 

さいわい今のところ、わたしはそれでどうにかなっている。わたしは相当に本心を語りたがるほうだから、やや語らないくらいでもちょうどいいのだ。だがそれでも、わたしは語る機会がほしい。だからこそわたしは、こんな日記を続けてきたのだ。