わたしの語ることばは、必ずしもわたしの本心とは限らない。
ほとんどのことばは意味を持つ。意味という海原の広さはさまざまだが、とにかく、ことばはほとんどの場合、なにかの内容の共有のために発される。
だが同時に、ことばは形式だ。わたしたちはとりあえず、どんなことばも音声として発することはできる。その音声が既知の表記体系に対応していれば、わたしたちはそのことばを、文字列として記述できる。さらには、書かれた文字列に単語が、文法が見いだせるなら、わたしたちはその文字列を、ことばの形式的なつながりとして把握することができる。
音声から文字へ、文字から単語へ。単語からは文構造へ、文構造からは文脈へ、論理へ。ことばとはそういう、何層もの形式の積み重ねだ。
そして重要なのは、論理という比較的高レベルな形式だってまだ、形式に過ぎないということだ。
たとえば、音声は形式だ。だからわたしたちは、誰かのことばをまねることができる。たとえそれが、未知の言語で話されていようとも。文字は形式だ。だからわたしたちは、書かれたものを書き写すことができる。たとえそれが、未知の文字でも。
おなじように、単語も形式だ。文構造も形式だ。われわれは出鱈目な単語の羅列を、あるいは非文を、とりあえずそのとおりに把握することができる。そして論理だって、形式に違いない。
だからこそわれわれは、文章の意味が分からなくても、とりあえず論理を追っていけるのだ。正確に言えば、追えることもあるのだ。
さて、形式は自由だ。われわれは形式を、好き放題に組合わせて使うことができる。論理と論理を出鱈目に組合わせれば、出鱈目な結論を導き出せるだろう。とりあえず論理だけは通った、だがなにを意味したいのかは全く分からない文章を。
そしてそんなことばは、まったくわたしのことばとは呼べないだろう。
いくらわたしが、その論理を作り出したといえども。
ではそんなことばを、世の中はどう受け止めるだろうか。もしその論理がまるきりの屁理屈ならば、あるいは結論が非現実的ならば、世間は単に鼻で笑っておしまいにするだろう。それはただの、小賢しいことば遊びに過ぎないから。そう、みんなが理解するから。
だが実際につくられる論理は、そんなくだらないものだけとは限らない。いや、意味が欠如しているという点でくだらないことには変わりないのだが、それでも、鼻で笑って終わりにしてもらえるとは限らない。それはときに、遊びの域を超えて、真実らしく聞こえることがあるのだ。
論理は自由だ。だからわたしはたとえば、差別を肯定したり愛を否定したりする論理を作り出すことができる。わたしが悪であろうがなかろうが、わたしは形式的に、悪役を演じられる。あたかもわたしに宿る悪が、わたしにそのことばを語らせたかのように。
そしてその原因はもちろん、論理という形式が自由すぎることにある。だがそう説明して、世間は納得してくれるだろうか?
おそらく、してくれないだろう。
論理は遊び道具だ。ちょうどレゴブロックのように、出鱈目につなぎあわせて面白がることができる。だがそのおままごとはすこしばかり、真に迫りすぎているようだ。誰かを真面目な議論に誘い込んだり、強烈な不快感を催させたりしないためには。
わたしの発することばは、わたしのものだとは限らない。だが世間は、わたしのものだと考える。そう考えることによって、世間は回っている。
そしてともすれば、わたし自身だって騙されるかもしれない。論理は自由すぎるとわたしは知っているが、その知識を超えて、わたし自身を納得させる論理だってあるかもしれない。意味ではないものに、わたしは意味を感じとってしまうかもしれない。
いや、あるいは。
わたしはもう、とっくに騙されつくして、もはや手遅れなのかもしれない。