本当の終わり ①

 こうやって夜、ひとしきりネットサーフィンを終わらせ、重すぎも軽すぎもしない腰を上げてエディタに向かうのも、今日をふくめてあと二日である。

 

 最後なのだから気合が入る。たいていのことはそうである。

 

 ごくごく最初の、まだそれをするということそのものが物珍しかった時期を過ぎてからずっと落ち続けてきたモチベーションは、終わりを前にしてふたたび復活する。もっと前にしておくべきだった後悔がいまさらになって噴出し、もうそれらに対処する時間がないことが分かり切っているからこそ、逆に割り切って前に進める。

 

 終わりとはだいたい、そういうリミットとしての性質をはらんでいる。

 

 この終わりは例外かもしれないという話を以前にした。正確に言えば、ちょっとやりすぎた。要点を言えばつまり、最後を前にしてなおわたしはこの日課に未練を感じず、書くことを愛しなおさずにいる、という話であった。

 

 だがほんとうにそうだっただろうか。答え合わせをするのはいまである。

 

 べつの似たような機会をわたしは思い出す。

 

 高校のころに毎週出ていた、英作文の課題。いまと同じで文章を考えるのは好きだったが、記憶が正しければ、その課題はとくべつ好きなものではなかった。もっとも、わけのわからない文章を読むのよりはまだマシだったが。

 

 理由は今思えば明白だ。大学受験用の英作文のテーマとは、基本的につまらないものだからだ。深く考えることで納得のいく答えが得られるタイプの問いは、そもそも問題としてあらわれない。課題として出されるのは、すでに社会が議論をしつくしているせいでどう頑張っても既存の論調の後追いにしかならない問いか、あるいは自分のとりとめのない経験についての浅い説明の要求か、そうでなければ無人島になにを持っていくかなどと言った、きわめてどうでもいい空想の話に過ぎない。その問いを通じて、なにか面白いことを考えるなどということはできない。

 

 そうなってしまう理由は明白であり、そしてきわめて正当である。これは英語の課題なのであって、思想や哲学の課題ではないからだ。これは試験の対策であり、試験で問うべきものは生徒の英語運用能力であり、真新しい視点をもとに本質的な議論をするのは目的ではない。そういうことをやりたければ、わたしたちは母語でやる。

 

 そんな分析を、当時のわたしができていたわけではない。とはいえ単純に面白くないという感覚はあった。

 

 だが最後の回、面白くもないはずなのにもかかわらずなぜだか、わたしはその課題にやる気を出した。長い時間をかけて、既定の何倍もの語数を書いた(当時のわたしにとって、気合の基準とは文章の量だった)。終わりというものの持つ魔力にわたしはとらわれていた。