2023-01-01から1年間の記事一覧
こんな言いかたはなかなかしないだろうが、年末も今日で終わりである。 明日からは年始がはじまる。この言いかたも普通はしない。普通に言えば、明日から新年だ、ということになる。楽しみにするのはあくまで年明けという瞬間であって、年始という期間ではな…
誕生日でも、いつもどおりに日は暮れる。 子が生まれても親が死んでも、勤めていた会社が倒産して路頭に迷っても宝くじの一等を当てて働く必要がなくなっても、気象庁の予報通りに日はのぼる。雨は降るし、潮は満ちるし、電車は動くし、首都高速道路は渋滞す…
あと三か月でわたしは就職し、この日記は終わるつもりだ。 惜しいとは思わない。とうに書きたいことは尽きたし、こうやって続けていることがむしろ時間の無駄であるということにもすでに気づいている。辞める口実をわたしは探しており、就職で忙しくなるとい…
正月が明けたことになる正確な日程はひとによって違う。けっこう多いのは、三日までが正月で四日からは通常営業、というパターンである。あるいは四日か五日まで続くパターンもあるし、正月関連のイベントが全部終わるまでが正月だとすれば、七日の七草粥や…
家に帰ってきた。 国内なので時差はない。時差はないから時差ボケはしないが、出先特有の早起きの影響がある。さすがにこの時間に眠くはならないが、今日はもうやりきった感覚がある。 年末と呼ぶかどうかあやしい時期に出発し、年末と言っていい時期に帰っ…
普段と違って、出先で日記を書くのには時間的な制約がある。 まず、予定がある。寝る時間も制限を受ける。夕食を終えて部屋に戻って、時間が取れるとは限らない。だから探さないといけない。 空き時間そのものはある。だから時間を探して見つからないという…
文句とは基本的に、つまらないものである。だから極力聞きたくない。聞きたくない相手に話をするのは嫌だから、言いたくもない。 つまらない原因の半分はありきたりすぎるということだ。インターネットを漁っていれば、やれ上司に理不尽なことを言われただと…
些細なことを世の中のせいにして文句を言うのは違う、という価値観で生きてきた。 違う、というのがどういう意味なのかはなかなかことばにしがたい。品性に欠けると言ってしまえばそんな気もするし、ダサい、というほうが近いかもしれない。単純につまらない…
ヨーロッパに旅行したときのことだ。 夕食に入ったレストラン。向こうの人間は外で食べるのがやたらと好きなようで、店の前の歩道にしつらえた布屋根の下のテーブル席に案内される。上等な席とはけっして呼べない。だがたしかに日差しと風が心地よく、食事の…
飲まないやつに飲食店は厳しい。 社会は、ではない。 酒が苦手な人間にも飲むことを強要する社会というのがどうやら過去にはあって、最近の世の中はその悪習を払拭するためにずいぶんと頑張っているらしいが、そういう話をしたいわけではない。なぜって、わ…
だからといってなにが起こるわけでもないが、誕生日である。 二十七歳になった。 二十七という数にとくに意味はない。これが七歳や八歳だったらこの日の特別感に酔いしれただろうし、二十や三十や八十だったらなにかしらの節目になったかもしれないが、今回…
これを書き始める前、わたしは二週間同じことについて書き続けていた。 そう聞けば悪くない。同じテーマで長く書き続けられるというのはいいことだし、書き続けたというのは事実である。すくなくとも、思い返して恥ずかしくなるようなことではない。 けれど…
日記をはじめたころから、この場所は自分のための場所だった。だがあのころ、これはだれかに向けた文章だった。 読者の存在をほとんど想定しなくなったのはここ一年ほどのことだ。そうなった理由は、思い出そうとしても思い出せない。分かっているのは、なに…
わたしはこの日記を、だれかに読んでほしいと思って書いているわけではない。 もっとも、ごく最初のほうは違ったかもしれない。 どんなことでもはじめのうちはそうであるように、あのころのわたしは熱意に燃えていた。いい文章が書きたかったし、いい文章が…
ちょうど二週間のあいだずっと懲りずに同じテーマについて書いてきたが、そろそろ飽きてきた。キリは悪いがおしまいにしよう。 こうやって気軽に打ち切れるのが日記の良い点である。だれに向けて書いている文章でもないから、やめてもだれも困らない。 いい…
具体例に行こう。 例によって超光速移動の例である。思い思いの名前がついているとはいえ、サイエンス・フィクションにおける超光速移動のたいていは結局のところ亜空間航法に分類して問題ないだろうから、亜空間航法の話にしよう。 亜空間航法をするにはな…
A ならば B である。 これが「B ならば A である」を意味しないことは、中学だったか高校だったかの数学で習うことだ。習った記憶はないが、習うことにはなっているらしい。教科書的な知識によるとこれは逆か裏のどちらかで、わたしの記憶がただしければ、た…
科学には限界がつきまとう。ではそれはそのまま、科学を用いた創作の限界としても機能しているだろうか。 ある意味ではイエスである。科学の限界をサイエンス・フィクションは無断で破ってはいけないからだ。 物語の展開上、たとえば宇宙船が光速を超えて動…
科学にはつねに限界が付きまとう。 なにかの限度を示す法則が科学にはいくつかある。多くは物理法則である。その限界が知られていないか、すくなくとも広く信じられてはいなかった時代に、多くの自称科学者がそれに挑んだ。そしてことごとく失敗した。 光速…
ある現象を科学が解明したと呼んだり、ある技術を科学が実現したと呼ぶのは、それをその分野が認める粒度にまでじゅうぶんに細かい要素へと分解し、説明し構築しきったときだ。その性質が、科学というものを巨大なものにしている。 いっぽうでサイエンス・フ…
大規模なシステムであって、制作にはひとりにはとうてい無理なほどの莫大な作業と込み入った知識を要し、だが科学とは呼ばれないもの。そんなものがあるか、一日考えたが、思いつかない。 だからこれは結論にしてしまおう。そういうものはみな科学であると。…
今までの話をまとめよう。 科学と魔法はどちらも技術の体系である。それらは同じ社会のなかに同居できないため、科学世界と魔法世界は分かれている。 分かれているが比較は可能だ。技術であるという点でふたつは同じだが方向性が若干異なり、科学は魔法より…
では科学と比べて、魔法の優れている点はどこか。 そんなことはいくらでもあるだろうとわたしたちは思う。わたしたちは魔法に憧れるからだ。だから魔法を物語に描くのだ。隣の芝は青い。 だが魔法使いの気持ちになって考えてみれば、わたしたちの憧れの多く…
魔法とは別の体系を持つ科学である、という視点を昨日は紹介した。 逆に考えるとどうなるか。魔法の目からすれば、科学とは別体系の魔法である、ということにもなる。 科学という概念の理解のため、そういう目で科学を見てみよう。きっとそれはある種の憧れ…
そうなったとき、魔法はすでに科学の一部である。 ではいつそうなったのか。 社会実装がなされ始めたときか。違う。世の中の役に立たなくても科学は科学である。魔法と違って、世の中の役に立たないものを、科学は科学と呼べる。 魔力と魔法使いが呼んでいた…
思考実験をしよう。ほんとうに魔法を使える魔法使いが現実に現れたなら、科学はいったいどんな反応をするのか。 陳腐な仮定ではある。だがわたしは、どうもこの問いの中に、科学を特徴づけるなにものかが潜んでいるような気がしてならないのだ。 始めよう。…
魔法の出てくる典型的な物語を思い浮かべてみよう。 それは冒険や戦争の物語である。そうでなければ学園ものだが、その学園では大事件が発生するから、結局冒険や戦争らしきものに遭遇することになる。そうでないものもきっとあるだろうが、わたしがいくつか…
魔法の出てくる典型的な物語を思い浮かべてみよう。 それは冒険や戦争の物語である。そうでなければ学園ものだが、その学園では大事件が発生するから、結局冒険や戦争らしきものに遭遇することになる。そうでないものもきっとあるだろうが、わたしがいくつか…
たとえば、魔術について考えてみよう。 魔術は科学と呼べるか。 科学革命後の科学者にそんなことを聞けば間違いなく、お前は馬鹿か、と言われるだろう。 曰く。科学というのは魔術などとは違い、世界の真実を探るための体系化された正式なプロセスなのだ。魔…
たとえば、魔術について考えてみよう。 魔術は科学と呼べるか。 科学革命後の科学者にそんなことを聞けば間違いなく、お前は馬鹿か、と言われるだろう。 曰く。科学というのは魔術などとは違い、世界の真実を探るための体系化された正式なプロセスなのだ。魔…