思い付きを書き留める

世の中に表現形態はたくさんあるが、もっとも論理的な形態は文章だろう。

 

文章には、およそことば以外のものはなにもない。文章には絵画のように、一目でひとを釘付けにする模様の鮮やかさもない。文章には音楽のように、無意識のうちに身体のすみずみにまで行き渡るほどの侵襲性も、普遍性もない。文章にはゲームのように、ひとに試行錯誤させ、楽しく遊ばせるだけの発展性もない。

 

文章を摂取するプロセスは複雑だ。文章を読むとは、外部的には、ただの文字の羅列を順に目でなぞってゆくことだ。だがわたしたちの脳内では、その文字の羅列はことばとして解釈され、それらのつながりかたが理解され、文章として解釈されている。

 

さらに脳は、その文章がなにをあらわすのかを理解し、みずからの経験や知識とつなぎ合わせ、ときには鮮明な情景をもはっきりと浮かび上がらせる。もともとがただのインク染みの羅列だったことを考えれば、これはおそらく、ほとんど奇跡に近い現象だろう。

 

さて、そのプロセスは細部まで順序的だ。なにかの情景の細部を伝えたければ、書き手はそれを書くしかない。その情報がさして重要ではなかろうが、それが紙面を視覚的に占める割合は、ほかの重要な情報と同一だ。そしてどんな情報も、文章全体の流れの中に、一次元的に配置されなければならない。絵画のように、隅っこにこっそりと書き込んでおいて、受け手が無意識に知覚してくれることに期待することなどできないのだ。

 

というわけで、わたしたちは書くとき、順序を考えなければならない。文章は一次元的だが、文の構造は必ずしも一次元的ではないからだ。たとえば物語では、同時に複数個所で事件が起こっているかもしれない。論文で主定理を証明するときには、著者はふたつの独立した補題を示し、それらを組合わせるかもしれない。さらにいえば、文章は必ずしも演繹的ではない――まず結論を書いて、そうして理屈を書くのも、立派な文章執筆のテクニックだ。

 

だからわたしたちは、かならずしも順番に書いていく必要はない。じっさいわたしは、論文のイントロダクションは最後に書く――その方が書きやすいから。だがこの日記は、わたしはいつも順番に書いている。その方が、書きやすいから。

 

文章は生き物だ。せっかく全体の構成を考えても、その方向に進んでくれないこともある。そんな文章の中で、わたしがもともと書こうとしていたのは冒頭だけだ。そして文章とは、基本的に最後が重要だから、その場合もはや、書きたかったことはなにひとつ残っていないことになる。

 

さて、今日もそうだ。この文章はほんとうは、もっと自虐的なものになる予定だった。具体的な姿は明かさないことにするが、わたしはわたしが書こうとしていたことを、とにかくまったく書けていない。

 

だがおそらく、それでいい。書こうとしているものは、いずれ書けるはずだ。これは日記、今日考えたことを書き留めておくためのものだ。だから書きたいことを書くより、べつの計画の中でふと思いついたことを書き残すことのほうが、おそらくよっぽど価値あるいとなみなのだ。