論理性好き放題プラン

論理とは万能の道具である。

 

どんな主張だって、論理的に説明することはできる。たとえば、たとえば……ワクチン接種の是非について。これを読んでいるひとのほとんどは接種に賛成だろうから、あらかじめ断っておくと、わたしはもう接種を受けた。だが、反対することと論理的でないことはべつの話なのだ。

 

まちがいなく、接種に反対する論理は成立しうる。具体的な論理は、ここに書くまでもないだろう――すでにいろいろなひとが、いろいろな主張を戦わせている。反対の主張はピンキリだが、そのなかにはまちがいなく、しっかりと成立している論理だって含まれている。

 

もしあなたがそんな論理を見たことがないと言うのなら、それはあなたが盲目で、反対意見に耳を傾ける気がまったくないということだ。あるいは、そんな論理が成立しえないと言うのなら、それはあなたの想像力が欠如していて、反対意見を構築する能力がまるでないということだ。

 

繰り返すが、だからといってわたしは接種に反対しない。どんなことだって論理的に説明はできるのだから、論理的であることそれ自体は、わたしがそれに同意するかどうかとは無関係だ。わたしは、わたしたちは、ある論理が成立するからなにかに賛成するわけではない。やっているのは、ある論理とべつの論理を比べることだけだ。

 

さて、では論理の価値とはなんだろうか? どんなことにも論理が建てられるなら、どうして論理が、なにかを判断する材料になるのだろうか?

 

立ててはみたものの、これは無意味な問いだ。この問いは、論理がどうして判断材料になるのかに、論理的な根拠を求めている。なんたる傲慢な自己言及だろうか、その論理はつねに作れると言っているのに!

 

というわけで考えるべきは、論理がなにかを判断する材料になるという前提のもとで、わたしがどう生きるかだろう。言い換えるなら、論理という万能の道具を、わたしがどう操るかだろう。わたしは屁理屈を思いつくのは得意だから、この論理の世界は、わたしがうまくやれるようにできているはずだ。

 

すべてが正当化されてしまえば世の中は回せないから、世の中において、論理は成立していればよいというものではない。殺人を肯定する論理などいくらでも作れるが、だからといって殺人が正当とみなされるわけではない。そういう明確なことがらについては、世の中は論理以外のルールに従っている。

 

だが、もっとあいまいな領域では、屁理屈は力を持つ。たとえば、未来予測。やれ一九九九年に世界が滅ぶだとか、二〇四五年にシンギュラリティが訪れるだとか (似たような話だ!)、人類は未来に関して好き放題言っている。そしてそれらは、それぞれに論理的だ。

 

その論理が成立し、あるていど認められる以上、わたしはそれをつかうことができる。わたしがものごとを語るとき、わたしはわたしの都合の良い未来を、都合の良い社会分析を、都合の良い市場を仮定することができる。

 

わたしは好き放題に語り、そして、答え合わせは待つ必要はない。二〇四五年の社会がどうあれ、それはこの現在、そう予測することの論理性には影響しないからだ。わたしは現在に生き、現在の論理を語る。そしてそれが机上の空論に過ぎない限り、わたしの論理は、わたしのすべてを肯定してくれるのだ。