本当の終わり ②

 あの作文にわたしが込めたものは当時、熱意だと理解されていた。そう理解されることに違和感を抱いた記憶はあるが、あのころのわたしにはまだ、その正体を言語化できるほどの知性はなかった。だがきっと、いまならできる。

 

 けじめ、ということばで表現するのが一番近いかもしれない。最後に行うのは、最後にふさわしいものでなければならないというけじめである。あることを自分がもうしなくなると決まっており、かつその活動との関係が、もう二度とかかわりたくないとは言わない程度にはおだやかなものであったのなら、最後はそれらしいフレーバーを持ったものでなければならない。もう二度とかかわらないということをべつに惜しくは思わないとしても、いやむしろだからこそ、そのものごとによって生まれうるくだらない後悔が、今後の人生に影を落とさないようにしなければならない。

 

 それがどうでもいいがゆえに、それをつづけることがないがゆえに、後味よく、すっきりと忘れられるような最後をもたらさなればならない。

 

 あのときのわたしを衝き動かしたのは、自分自身に対するそういう責任感だったような気がする。

 

 そしていまわたしの指先に流れているのは、それと似ているようで、すこしばかり異なる感情かもしれない。

 

 日記に未練はない。書きたいことももうない。とはいえ書きたくなったらいつでも帰ってこられるのだから、べつに未練を残さずに去るべき理由もない。したがってけじめという意味でいま、わたしには張り切るべき理由はない。こうしてできてゆく文章を、最後にふさわしいかたちにするべき理由はなにもない。

 

 最後までいつもどおりでいるだろう、とわたしは思っていた。つい二週間前でも、まだそう思っていた。最後になって突然書きたいことがあふれてくる、なんていうことはない。だからいつもどおり、だらだらと書くしかない。

 

 その予想は半分は正しかったが、半分は違った。こうして実際に終わりを迎えてみて、はじめて分かった。

 

 いつもどおり、書くことはない。ないから、終わるということについて書いている。ないから、量も増やさない。だがこれを書くことに向けられている熱意の量は、なんだかいつもとちがう。数日前から、明らかにそう感じる。細部のことばえらびや文章の切りかたをはじめとした、一文一文に向ける意志の量が、多い。考えている量が、多い。普段は妥協して引き延ばすあらゆる部分に、それを許さない。文章を書くという体験から引き出せる感情を余すところなく味わってやるのだという執念が、身体のなかに燃えている。

 

 せっかく戻ってこられるのだし、あえて未練を残す終わりかたをしてもいいだろう。

 

 この執念の正体がなんなのか、わたしはまだよく分からない。考えればわかるものなのかもしれない。

 

 だがそれを言語化するのは今日ではないし、とりあえず、明日でもない。