利己的な利他容認

ゲーム理論とは、複数のひとの行動をモデル化して扱う学問だ。そこでは、ひとの行動が引き起こす結果が、各々が合理的に行動すると仮定して解析されている。

 

たとえば、有名な囚人のジレンマ。ふたりの囚人が登場するそのゲームでは、獄吏はそれぞれの囚人に、ふたつの選択肢を与える。一方は、もうひとりを信じて黙秘すること。もう一方は、もうひとりを売って助かろうと自白すること。

 

このゲームに対し、ゲーム理論の出す結論はこんなところだ。ふたりが両方合理的ならば、ふたりとも、もう一人を売って自白することになる。だがその選択肢は、ふたりともが黙秘した場合と比べれば、両者にとって損なのだ。そしてだからこそ、このゲームはジレンマと呼ばれる。

 

だが現実には、ひとは合理的ではない。このゲームを実際に行えば、黙秘を選ぶひとだっているだろう。そしてこの場合、おかしいのは現実ではなく、理論のほうだ。理論はあくまで現実のモデル化に過ぎないのだから、現実がイエスと言えば、それはイエスなのだ。

 

さて、わたしの行動の話をしよう。こんな非合理な世の中にあっても、わたしは合理的に、いわばゲーム理論的に行動したいと思っている。世の中の人が合理的でないことと、わたしが合理的なことは別の話だ。

 

そしてそのときわたしは、世の中が合理的でないことを考慮したうえで判断をする必要がある。他人の非合理的な行動、たとえば存在しない誰かに向けられた忖度によって、合理的なわたしまでもが損をすることがあるからだ。ゲーム理論はじっさいに、そんな例も取り扱っている。

 

だがその判断は疲れる。だれかがだれかの良心に期待するのと同様、ほんらいわたしは、他人の合理性に期待したいのだ。互いが得をするならそうしたほうがよいという、単純だが現実には成立しない論理に。

 

そしてその論理は成立しない以上、期待などしてはいけない。非合理的な人間を馬鹿だと糾弾するのは簡単だが、それはわたしをただしくも、世の中を合理的にもしない。

 

逆に言えば、わたしは誰かの非合理性のほうにだって期待することができる。世の中にはとても合理的には見えないたくさんの利他主義者がいる。そして彼らが非合理だからといって、彼らがタダでくれる利益をみすみす逃すのは、合理主義者として正しい態度とは言えないだろう。

 

そしてどうやら、わたしは完璧な合理主義者ではないようだ。利他主義者によくしてもらったとき、わたしはいくばくかの良心の呵責を覚える。わたしもなにかの見返りを与えなければいけないかもしれないことに、だがとてもその気はないことに。

 

わたしは利己主義者だ。そして全員が利己的であれば、世の中はある意味生きやすいだろう。わたしは誰にも気を遣う必要はなく、ただ自分と相手の利益を勘定していればよいのだから。

 

だが、そう指向するのは筋が悪いかもしれない。その世の中は、確かに生きやすいが、得られる利益は小さいだろう。つまるところ、他人の好意を曲げさせようとするのは、おおかたの場合合理的ではないのだ。