ことばのダンスに身を任せ

わたしのことばは、必ずしもわたしのものだとは限らない。

 

ことばはあくまでデータだ。とくにコンピュータ上では、およそどんなことばだって、元をたどればただのゼロとイチの列に過ぎない。偉大な文豪の作品も、このしがない日記も、どちらもまったく同じ手段で、機械的に処理される。

 

コンピュータが、いや活版印刷が発明される前だってそうだ。そのころはたしかに、ことばはすべてひとの手で書かれていた。だからそのことばは、原理上ユニコードの文字列より、はるかに多くの情報量を含んでいた。だがそれでも、ことばの本質は文字ではなく、その記号列としての性質だっただろう。たとえば源氏物語の写本を読む経験は、原本を読む経験と比べ、それほど違ったものではなかっただろう。

 

もう少し解像度を上げて見てみよう。プリミティブにはことばはただのバイト列だが、そこにはもうすこし豊かな構造がある。ことばには文法がある。文がある。ひとかたまりの文は文章と呼ばれ、意味的なつながりを持っている。そして文章はときに、深遠なな示唆をくれる。

 

そして重要なのは、その深遠さに関わらず、ことばがあくまで文字列に過ぎないということだ。

 

ことばからは、属人性をすっかり取り去ってしまえる。いかに深遠な概念だって、誰の口からも語られうる。ことばを調達してくることさえできれば、誰だって見かけのうえでは、絶世の詩人になることができる。

 

ではことばは、どこから調達できるのだろうか?

 

もっとも簡単なのはもちろん、だれかのことばをコピーすることだ。ことばの内容は不明でも、いや、もっといえば文法すら知らなくても、とりあえずそれは語られうる。だが現代において、それを得意げに語るのは得策ではないだろう。なぜなら、剽窃はすぐばれるからだ。

 

ではもうすこし、ことばの細部に踏み入ってみてはどうだろうか。ことばには論理がある。そして論理とは、文字列ほどではないが、それでも形式的に扱えるものだ。わたしたちは演繹だとか量化だとか称して、論理を組合わせることができる。そしてことばから、機械的にあたらしいことばを作り出すことができる。

 

そしてその作業だって、そんなに難しくはない。

すくなくとも、自分の感性やあいまいな思想から、じぶんのことばという糸を紡ぎ出すよりは。

 

そうやってつくった論理は、わたしのことばであって、わたしのことばではない。たしかに誰のコピーでもないが、わたしがわたし自身と対話することによって作り出したことばでもないからだ。わたしは、そのことばを最初に語った。だがその作業は表層的で、けっしてわたしの本心を反映しているわけではない。

 

さてわたしは、そんなことばをここに書くこともできる。いや、おそらくこれまでも、さんざん書いてきたのだろう。無意識のうちに、つい楽をしようとして。表面的な論理に身をまかせるのは、ことばという形式のダンスを鑑賞するのは、みずからの心の声を聞くのと比べて、はるかに簡単だから。

 

だがそれも面白いのかもしれない。論理をつうじて、わたしはわたしならざるものを語ることができる。架空の誰かを模倣することができる。

 

そしてその自由こそ、ことばの形式性の偉大さに他ならないだろう。