ハッタリと正義

わたしは、わたしのことば以外を語りたくない。

 

最近書いてきたとおり、おおかたの場合、わたしはわたしのことばだけを語る。世の中がこうなる前だってそうだったが、最近ではさらに顕著だ。わたしは、わたしのことば以外を語らねばならぬ相手と、そもそも語り合わなくてよい。

 

だいいちに、初対面の人と語り合う機会はおかげさまでめっきり減った。だから、わたしはわたしのことばが相手の地雷を踏みぬく可能性をあまり考慮しなくてよい。そして第二に、初対面ではないが本音も語れないひととの付き合いは、そもそも避け続けることができる。

 

というわけで、わたしはこの世界に満足している。わたしが腹を割って話し合える相手との関わりをあらかた保ったまま、そうでない相手との関わりを断ってくれる世界に。

 

さてだが、まだひとつ、わたしが嘘をつかねばならぬ領域が残っている。わたしの語りにとって、この世界の最大の欠点かもしれないそれは、ほかならぬわたしの本業の中に潜んでいる。そう、研究である。

 

研究者はつねに、自分の研究の意義を語り続けねばならない。その研究をすると、実世界のなんの役に立つのか。その研究から、なにが生まれることが期待できるのか。もし仮になんの役にも立たなさそうでも、それでも研究者は、それの理論的な重要性を説明せねばならない。たとえ理論的重要性という概念に、わたしを含めただれかが満足すること以上の価値を感じられないとしても。

 

そしてそのどれにも、わたしは興味がない。

 

わたしは、わたしが問題を解く楽しみのために研究をしている。模範的な理論研究者とおなじく、わたしはわたしの研究が現実の役に立つことに興味はない。そして理論研究者の規範から外れて、わたしはわたしの研究がなにかを明らかにすることにも興味はない。わたしの研究の先に見えてくる、素晴らしいかもしれないらしい世界にだって、じつのところわたしは興味がない。

 

わたしと似たような相手に、わたしはそう語ることはできる。だが世の中は、つねにそんなに都合よくはない。論文や申請書に、わたしはそうは書けないのだ。「本研究の成功の暁には、わたしが喜びます」――それはまごうことなき真実で、そして、まちがいなくリジェクトだ。

 

というわけで、わたしは方便を書く。わたしはわたしが書くことばを嘘だと知っているが、本音で申請書は埋められないのだ。わたしはわたしに言い聞かせる、そもそも申請書は、論文のイントロダクションは、嘘の真っ赤さを競う品評会だと。

 

「この文章は嘘です」とことわっておくことすらせず、わたしは堂々と嘘を並べ立てる。そしてわたしは、その嘘に罪悪感を覚えない。その嘘は、誰かの目の前で本音を偽るのとはまったく違う。書類の向こうに座っているのが、もしわたしが大切にしたいタイプの人間であるならば、そのひとは、その欄は嘘を書く欄だと知っているはずだからだ。

 

ある意味ではその書類は、小説にも似ているかもしれない。嘘だと書かなくても、申請書は嘘だ。そして「この物語はフィクションです」と書かなくとも、フィクションはフィクションとして受け取ってもらえる。

 

そう考えれば、わたしは研究の嘘を楽しめるのかもしれない。とりわけわたしが、面白い嘘を書けた場合には。その嘘が巧妙だと、読者に思ってもらえたときには。

 

そしてその楽しみは、案外研究者の道を外れていないのかもしれない。嘘は、語り続ければ真実になる。そしてわたしに、その努力をする義務はない。真実にするのは誰でもいいのだ。

 

もしかりに、どこかのバカがわたしの方便を真に受けて、おおまじめに実現に向けて動いてくれるのなら。

 

わたしのその気がなくても、研究者の世界では、わたしは正義だということになっている。