文章の圧縮

文章を書く楽しみ。

そのひとつは、縮めることだ。

 

経験上、良い文章は、より長い文章を限界まで縮めて得られる。一発書きで良いものは書けない――初稿は書くだけで精いっぱいで、いつだってぼんやりしている。大事なのは、曖昧な殴り書きから一貫したストーリーを抽出することだ。

 

書かれていないストーリーは抽出できないから、推敲は、役割の薄い部分を消していく作業になる。どこが大切で、どこが実は不要なのか。徹底した仕分けを通じて、文章の、自分の思考の本質が見えてくる。

 

もっとも、縮める作業には、卑近なものもある。脳が出力するがままの不格好な短文を、どうにかこなれさせる作業だ。例えば、同語反復を避ける。同じ節の出現回数を減らすために、語順を変える。冗長な句は、一語にまとめてしまおう。長い主語の一部を述語に持ってくれば、頭でっかちな印象を消せるだろう。こういう局所的な作業は、文内容の本質とは程遠い。だがそれはさておき、重要で面白いパズルだ。

 

思考の本質を彫り出すのは大変だ。これは持論だが、書いた時の気持ちを忘れ、一文一文への愛着が消えて初めて、人は文章の内容を削れるようになる。だからストーリーの抽出には時間がかかり、その点で、日記は文章の訓練にならない。

 

だが、パズルにはおそらく、時間は必要ない。コツを掴めば、一文一文はこなれてくる、そう私は信じている。その点、日記はよい訓練だ。量をこなす以上のテクニックの訓練はないし、そしてなにより、楽しいパズルが毎日解けるからだ。

精神論とその逆と

できるはずのことと、できることとは違う。うっかり逆向きの電車に乗ってしまうこともあるし、簡単なはずの問題はときにまったく解けない。足元に張られた透明なロープのように、しばしば不可能は予想のはるか外から潜り込んでくる。

 

精神論は、この計算違いをひとことで説明してくれる――「たるんでるから」。できるはずなのだから、やる気があればできるに決まっている。なるほど、実にシンプルな論理じゃあないか。

 

たいていの場合、精神論の説明は単純すぎる。それは個別の現実を無視して、すべてのことを同じ論理で説明する。万能の論理、それは実のところ、何も言っていないに等しい。

 

単純すぎる説明なら、なにも精神論に限った話ではない。精神論がすべてを可能の側に押し付けるの同様、すべてを不可能の側に押し付ける論理もある。「できるはず」はすべて錯覚で、できなかったのだからできないのだ、と。悪いことに彼らは現実主義者を自称するが、彼らもまた、現実を見てはいないのだ。

 

 

今日できなかったことは、本当はできるはずのことなのか。すべてを可能ともすべてを不可能とも言えないのなら、個別の問いに答えるのは骨の折れる作業だ。だから、少しくらいの妥協は許そう。実のところ、単純すぎる説明は、すべてのことに一定の指針を与えてもくれる。

これは日記か

日記を銘打っておきながら、私の生活はほとんどここに記されない。パソコンと布団の間の二メートルの往復に、取り立てて書くほどのストーリーは宿らないからだ。

 

だが、文章の内容は、その日の生活に全く無関係でもない。昨日私がプログラムについて書いたのは、プログラミングコンテストに出たからだ。ありがたいことに、生活はテーマを暗示してくれる――生活そのものがテーマではなくとも。

 

 

だがそれでも、テーマに困る日はある。人生は、文章のヒントすらない日の連続だ。

 

そんなとき、思考は不必要に雄大になる――一京円あったらどうするか。民主主義システムの再構築法は。宇宙は実は牛乳でできていて、我々はカマンベールチーズの皮の上で暮らしている。

 

論評や小説はこれらの問題に答えを与えられる――だが、一日では無理だ。だから代わりに、どうにかお茶を濁して今日をやり過ごさなければならない。

 

そうして私は、ひとつのありきたりな真実に行き当たる。

そう、今日は何も書けない日。

だから、何も書けないということについて書いてしまえばよいのだ。

厳密さのレベル

数学的厳密さは、理解する者を選り分ける篩である。生半可な理解では、細部まで厳密な証明は書けないからだ。

 

プログラミングにも同じことが言える。一般的な手続き型言語において、機械が認識する厳密さのレベルは、数学が厳密と呼ぶレベルとかなり似通っている。だから、理解のプロセスとして、証明とプログラムの執筆は同質だ――両者の諸概念の対応、といった難しい話を考えるまでもなく。

 

だが、数学にもプログラミングにももっと厳密な領域がある。証明を書くとき、人はいちいち集合論の公理に立ち返らない。同じように、プログラムをチューリングマシンに直接記述することはないし、中央演算装置の単位命令もほとんど意識されない。

 

だから本来、似ているのは両者の厳密さのレベルではない。人間の直感に合うように都合よく設定されたレベルが、たまたま一致しているにすぎないのだ。

 

これが偶然か必然か、それともこの一致が錯覚に過ぎないのか、そんなことはどうでもよい。ただ、数ある厳密さのレベルの中で私はここを理解と呼ぶ、そう宣言することで、私は態度の相対性を担保しようと思う。

書き直しの正当化

数学の証明を書き始めるには、物語を始めるよりはるかに高解像度の理解が必要だ。往々にして、見切り発車は失敗する――やればできるだろうと思って放っておいたところに、しばしば問題の本質が隠れているからだ。

 

だが気を付けていてもなお、証明は頓挫する。紙の上のイメージをいくら詳細に詰めたところで、駄目な定義はできてしまう。物語と同様、証明にも、書いてみないと分からないことはあるのだ。

 

物語と違って証明は、一箇所の間違いが全体の間違いを意味する。最初の定義が使い物にならないと分かったなら、軌道修正など不可能だ。できることはただひとつ、最初から書き直すことのみ。

 

だから証明は、進んで戻ってを繰り返す。作業は遅々として進まず、一週間分の進捗はすぐ水泡に帰す。こうして消した証明は、間違っているから、決して再利用されない。進捗だったはずのもの、そのたった一箇所にひびが入れば、それはただ消失する。

 

 

だが、次に定義を変えて書き直してみれば、前よりも手は順調に動く。こう解釈することが可能だ――間違った証明を通して深まった理解が、次の証明に応用されている。

……都合が良すぎるだろうか? 

 

もちろん、そう解釈しないとやっていられないという面もある。

だが実のところ、そう解釈しない理由もないのだ。

 

 

 

そんなものへの理解を深めて何になるのだ、時折私はそう思う。理解できるのはあくまで自著論文のいち証明の細部の細部、まったくもって本質的な事柄ではない。理解していなくても、正しい証明を書きさえすればよいのだ。

 

理解による間違いの正当化。証明を書き切ることが目的な以上、それは不誠実な態度だ。だが、正当化しないとやっていられないのだとしたら。

 

その二枚舌は、もはや不都合の黙認ではない。

最後まで書ききるテクニックとして私は、私の不誠実を正当化する。

創作と研究の方向性

創作も理論研究も、ストーリーを作る営みである。クライマックスに向けて物語を展開するのが創作で、主定理に向けて証明を展開するのが数学の理論研究だ。

 

もちろん、物語も証明も、思い通りには進まない。展開を続けるうちに、当初の予定とはまったく異なるところへ行きつくこともある。ある意味、これはストーリーの自由さとも呼べる。

 

だが、研究は創作よりもはるかに不自由だ、と私は思う。物語は結局人の動きだから、作者がある程度コントロールできる。その人物に似つかわぬ行動も、「今日はなぜだかそういう気分だった」である程度は正当化できるからだ。一方、数学の研究において、回らない証明は、ただ、回らない。

 

ストーリーの行先の設定で、この違いは大きく効いてくる。創作では、物語を無理やり捻じ曲げれば、どうにか当初の予定地点に着地できる保証はある――それが良い物語かはさておき。一方、数学にその保証はない。ある種の論理学的仮定のもとで、数学は、黒を白だと言い張る能力を一切持たないからだ。

 

もちろん、だからこそ、数学は面白いのだ。黒は絶対に白にはならない、だから作法に則っている限り、どんな屁理屈でも通用する。しかしながら、そのパズル的面白さは、ストーリー的な自由度の、あるいは表現能力の代償である、と、私は言わざるを得ない。

文体の書き分け

複数視点の一人称で物語を進める以上、現在の視点人物が誰なのかは常に明確にしておかなければならない。これまでは、一人称を用いて視点を区別してきた。「私」「アタシ」の別において誰の物語かがわかる、そういう算段である。

 

視点を特定するという最低限の目的は、この手法で達成されている。物語において人物は何らかの行動をするから、一人称が現れないということはなかなかあるまい。だがこれはあくまで最低限に過ぎない。世界を見る視点を変える以上、世界の色もまた変わるべきだからだ。

 

世界の色を変える最も有効な表現は、文体を変えることだ。自信を以て世界を見るキャラクターならば、地の文の端々に自信をちりばめればよい。不安を以て世界を見るならば、その逆に、世界そのものを暗くしてやればよい。

 

俺は短絡的、なら一文を短く。

わたくしがたしなみある淑女でございましたら、ひらがなとですます調がよろしいと思いますわ。

小生が衒学の気障りな垂れ流しを生業とするところの所謂知識人であるならば、高慢かつ迂遠な修飾語を一貫して並べ立てるのが適切と思われる。

 

さて、キャラクターに世界の見方があるのと同様、作者にも世界の見方がある。この日記の文体がすべて似通っているのは、筆者の私が世界をそう見るからだ。すなわち、文体を分けるには、普段は書かない文体を書く必要がある。

 

では、その方法は。例えば、自信に満ちた目で見た世界を表す文章は。出来上がった文章の中に、私は自信を感じ取れる。なら簡単だ。真似て、盗め。

 

すべてを確信しろ。未来を語れ。ありうべき最大の成功を、常に想像しろ。やることが分かった以上、私はもう文体の力を手に入れたに等しい。世の中は発展を続けている、そして私のペースはそれを上回るのだ!

 

文章は、思いもしなかった方向に進んでいる。これこそ、文体がなせる奇跡だ。自信家の文体で書く、それだけで自信家のキャラクターが動き出す。もはや文体は制約ではない。私の中に眠っていた想像力を呼び覚ましてくれる、大切な仲間だ。文体の力を自在に操り、何人ものキャラクターを同時に内面化する、そんな私には向かうところ敵などないのだ!