答えを急ぐこと

昨日は、わたしの好奇心の性質について書いた。それはとても気まぐれで、長続きしないものだ。そしてそれは、世の研究者たちが言う、研究を前に進めるための好奇心とは似て非なるものだろう。

 

さて、そんなわたしにも、長続きしているものがある。たとえば、この日記。半年以上にわたってそれなりの労力を注げる日課は、なかなかに珍しいものだ。とくに、続けることそれ自体への報酬、すなわちログインボーナスすらないとあっては。

 

長続きの理由は、わたしのわたし自身への興味だろう。わたしは内省が好きで、数年前からかなりの時間を、自分が何者かを知るために費やしている。それについて毎日文章を書いているのはここ半年のことだが、これらの文章の中身は、じっさいは数年間にわたる積み重ねに基づいているのだ。

 

そして、その積み重ね的な興味こそ、研究者然とした、一貫した好奇心なように思われる。

 

「わたしは何者か」という、わたしの常に考えている問い。しかしながらその問いは、いくら考えようが、「わたしは何者か」以上の解像度を持つことはない。探究を航海にたとえるならば、わたし自身という海では、信頼できる羅針盤はない。

 

にもかかわらず、わたしはわたしについて考え続けてきた。数学の研究では耐えきれないほどあいまいな問いに、途方に暮れるほど何もない大海原に、わたしは数年にわたって、真正面から立ち向かってきた。いったいどうして、わたしにそんなことができたのだろうか? こんな気まぐれなわたしに?

 

説明はいくらでもできるだろう。例によって、説明とは自由すぎるものだ。そして普段なら、わたしはそのいくつかを挙げてみて、その中のどれが正解なのかはわからないと書いて文章を締めている。あるいは、それらの複雑な絡み合いこそが真実だ、と書いて、わたしはわたしを誤魔化している。

 

だが今回は、もっと明確で、自己言及的な正解があるように思う。すなわち、わたしが考え続けられる理由は、理由がいくらでも考えられるということじたいに潜んでいる。

 

そう、数学についての説明と違って。

わたしについての説明は、いくらでも紡ぎだせるのだ。

 

どんな問いにも、わたしは答えを急ぐ。早く答えを出さなければ、その前にわたしは興味を失ってしまうからだ。だが数学では、どんなことも証明される必要がある。答えを求めれば答えが見つかるほど、数学は自由でも簡単でもないのだ。

 

反面、わたしは自由だ。わたしについての説明に、客観的な証明は必要ない。わたしについて理解したければ、わたしが納得できる説明をひとつ挙げればいいのだ。さらに言えば、場合によっては納得すら必要ないかもしれない――わたしに関して皮肉のひとつでも言えれば、とりあえずそれは、答えのひとつなのだ。

 

もちろん、答えには質の違いがある。急いで出した答えは、しばしば的を射ていない。ときには、間違いだと断言できる答えが出て、だがなぜか納得した気になっていることすらある。この日記こそ、数時間で急いで出した答えのはきだめだから、過去の文章を漁ればそんな例はごまんとあるだろう。

 

そしてもちろん、答えの質は高い方がいい。だがわたしには、上質な答えだけを一心に求める根性はないようだ。そしてその根性こそ、科学者たちの言う、一貫した好奇心というものなのかもしれない。

 

つまるところ、わたしが好きなのは、答えを出すという行動それじたいなのだ。