自分語りの真実

わたしは、つねにわたしのことばを語っていたい。

 

おおくの場合、わたしはわたし自身に正直なことばを語る。すくなくとも、そうあるように気を付けている。どんな話題に関しても、理想を言えばわたしは、わたしが腰を据えて考えて出した結論だけを語り続けていたい。

 

もちろん、現実にそんなことは不可能だ。わたしは気になったことの多くに結論を出そうと試みているが、世界はわたしがすべて考え尽くせるほど小さくない。そして目の前の相手は、わたしがこれまで考えようともしなかったことに関して、大真面目に語ってくるかもしれない。

 

そんなとき、わたしは答えに詰まる。これまで考えもしなかったことなのだから、仕方のない話だ。そしてひとしきり会話が終わり、相手と別れるとわたしは、満足に答えられなかったその話題について考えてみる。

 

経験上、その答えを紡ぎ出すのは難しくない。わたしは簡単な結論を出すと、次の瞬間にはみずからの即興性の欠如を呪うことになる。すなわちわたしは、そんな簡単な答えなら会話中に導き出して、即座に語ってしまえても良かったかもしれないのに、と後悔するのだ。

 

さて、当時は悔しいが、その話題はわたしのためになる話題だ。わたしは、わたしの気になるすべてを考えたいと思っている。そして会話の相手は、わたしにそんな話題を提供してくれた。だからその会話は、最終的には、わたしをひとつ賢くしてくれるはずだ。

 

いまの例は建設的だ。だが、わたしがわたしのことばを語りにくい状況には、もっと非建設的なものある。たとえば、わたしの意見と異なる主張を、相手が声高に述べているとき。わたしがわたしの意見を言えば、その場はとても険悪になるだろう。世界はわたしを中心にまわっているとわたしは真剣に思っているが、それでもわたしは、その場の雰囲気というものを完全に無視するわけではない。

 

そしてそんな意見対立の場で、わたしの意見はたいてい極論だ。帰無的で、常識はずれで、非道徳的だ。だから、わたしはよりいっそう、戦いを仕掛けにくい。その戦いは、どうやっても無謀な戦いだからだ。

 

というわけでわたしは、自分の考えに対立する考えに相槌を打ち続けることになる。「そんな考えを内面化出来たら苦労しねぇよ」という思いを心に秘めて、わたしはあいまいに、相手のことばの矢をのらりくらりと避け続ける。「そういう考え方もありますね」などのことばで最低限の相対性を担保しながら、わたしはまわりのひとが、相手の単純な正義の矢に撃ち抜かれる、あるいは撃ち抜かれたふりをするさまを、ただ指を咥えて見ている。

 

もっともわたしだって、その正義の側にもたくさん立ってきたのだろう。誰しも、自分の思い通りになった経験よりならなかった経験の方をよく覚えているものだ。だが思い通りにならない苦しみを知っているからと言って、それは相手の思い通りにしてやる理由にはならない。

 

というわけで、現実のわたしは、かならずしもわたしのことばを語れるわけではない。いま挙げた以外にも、そんな状況はいくつも存在する。わたしはときに感情的になって、こじつけの過ぎる嫌味を言う。雰囲気に流されて、軽薄な煽りを入れる。わたしはわたしの立場のために、無意味なものを有意義だと言い張らされる。わたしにはときに発言権がない。他にも思いついた気がするが、忘れてしまった。

 

外から見れば、わたしのことばとそうでないものは区別がつかない。だからわたしは一層、わたしのことば以外を語りたくはない。わたしをありのままに知って欲しいとは言わないが、すくなくとも、知ろうと思えばそうできるだけの判断材料をわたしは提供しつづけたい。

 

というわけで、わたしはこの日記を書いている。正確には、日記を書き始めてからわたしは、じぶんに正直であることを目指してきた。わたしの書くことはその日の気まぐれで変わるから、各々の記事は、かならずしもわたしをその通りに伝えないかもしれない。だがすべてを合わせれば、わたしの姿が統計的な真実として浮かび上がってくるとわたしは信じている。