行き過ぎた摂動の行先で

わたしは、わたしを分析する。この数年間、わたしはそうやって生きてきた。

 

とはいえ、わたしを定義づけるのはその分析結果ではない。わたし自身に分析されてもされなくても、わたしはやはりわたしだ。わたしはわたしに興味があるが、たとえまったくの興味がなくても、わたしがここにいるという事実にかわりはない (はいそこ、揚げ足を取らない)。

 

だからもしわたしの興味が、いまこの瞬間にはじめて発現したものだったとしても、やはりわたしは、わたしを同じことばで評価するだろう。わたし自身の分析にじゅうぶんに慣れるだけの時間と、その間不変でいられる強固なわたしが存在するならば。

 

だが残念ながら、わたしは不変ではない。そしてわたしが変わる一番の原因こそ、ほかならぬ自己分析じたいにあるように思う。だからわたしがもし、わたしをいちから分析しなおすならば、分析されたわたしはもはや、現在のわたしとは程遠いだろう。

 

では自己分析がなければ、わたしは一定なのか。厳密に言えば、もちろん答えはノーだ。わたしは外界に触れ、外界のあらゆるものがわたしを変える。いかに変わり映えのしない生活を送っていても、今日のわたしは昨日のわたしとは異なる。今日をいかに無為に過ごそうが、それでも明日のわたしは別人だ。

 

だがその論理は厳密すぎる。わたしの今日の目的は、自己分析がどれほどわたしを変えるのかを語ることだ。そして、分析がわたしをどれほど変えるのかを見積もるためには、わたしの自然な変化量の絶対値ではなく、自然変化の量と分析による変化量とを比較して語らなければならない。

 

そしてわたしは、わたしを変える原因のほとんどが、絶え間ない自己分析にあると思っている。

 

ことばの力は偉大だ。わたしがひとつの、わたしをよく表していると思われることばを思いついたとする。さすればわたしはそれを気に入って、頭の中で何度も反復するだろう。ちょうどここ数日の日記の、わたしはわたしを分析するのが好きだ、という書き出しのように。

 

反復したことばは、しだいにわたしの脳に刷り込まれる。そして次第に、ことばは真実になる。わたしはあたかも、最初からわたしがそのことば通りであったかのように錯覚する。だが実のところ、そのことばは、わたしの気まぐれがはじき出した、その日のわたしの分析に過ぎないのだ。

 

わたしは気まぐれだ。おそらく、すべての人類は気まぐれだ。わたしの分析は、そんなその日の気まぐれに影響される。そしてたまたま、その日がことばになる日なら、わたしはその日の気まぐれの方向におおきく引き寄せられることになる。

 

日々の気分は些細だ。だがその日、わたしがたまたまことばを生み出してしまったなら。

その日の気分は、わたしの方向性を決定づけるターニングポイントになってしまう。

 

それは恐ろしいのかもしれない。わたしの自己分析はもはや本能だが、それでもなお、その本能を矯正するべきな気もしてくる。わたしはわたしのターニングポイントを、管理できた方がいいのかもしれない。ランダムな気まぐれが決定づけるランダムな人生は、まったく良いものとは言えないかもしれない。

 

だがわたしにはいまいち、その恐ろしさがピンと来ない。わたしがランダムネスの帰結だろうが、別にそれでいい気がする。ではその鈍感さは、どこから来るのだろうか?

 

それはおそらく、わたしが求めているのは、べつによりよいわたしなどではないからだろう。

 

わたしの理想のわたしとは、わたしのことをより知っているわたしなのだ。