気まぐれな好奇心

自然科学を前に進める力は、好奇心だ。

 

判で押したように、著名な科学者たちはそう言っている。

 

すくなくとも、メディアはそう聞こえるように、発言を切り取っている。あるいはツイッター論客たちは、この時期がくるごとにそういうことばをありがたがって、みずからの主張の出汁として使っている。日本の科学政策を、ただ非難したい一心で。

 

さて、だがその好奇心というものは、少々むずかしい概念なようだ。というのも、わたしが好奇心だと思っているわたしのなかの感情と、世に言われている好奇心は、深いところで異なるように思われるからだ。

 

好奇心を定義しよう。世に言われる好奇心とは、興味を持ったなにかを、腰を据えて考え続けることだ。好奇心旺盛な科学者たちは、ただ己の知的興奮のみを求め、世の、自然の、数式の仕組みを解明してゆく。

 

そこにはひとつの、れっきとした方向性がある。ただひとつの「なぜ」が、数十年の研究のじゅうぶんな動機だ。科学とは積み上げるいとなみで、科学者は、みずから明らかにしたなにかをつかって、次の何かを明らかにしようと試みるものだ。

 

それを一貫した好奇心と呼ぶなら、わたしのは言うならば、気まぐれな好奇心だ。わたしは身の回りの様々なものに興味を持つが、なにに興味を持つかはその日の気分による。わたしはじつにたくさんの「なぜ」を問う。だがその「なぜ」は、「なぜ」のままでも構わない。問いを出せれば、わたしはそれで満足なのだ。

 

科学が問いに答えるプロセスは煩雑だ。数学では、わたしたちは定理の正しさを示すために、厳密な証明を書かなければならない。実験科学が事実を示すためには、実験設備を用意し、実験を繰り返し、統計的に正当化可能なかたちでデータを処理せねばならない。人文科学に関してわたしは明るくないが、憶測では、おおくの科学者が幾度もの議論を積み重ねて初めて、ひとつの科学的態度が生まれるのだろう。

 

そしてわたしの好奇心は、そのプロセスに堪えられるほど長続きしないだろう。

 

だが、そんなわたしにだってできる研究はある。わたしの気まぐれな好奇心は、たまにちょうどよい問いを見つけてくれるからだ。すなわち、すぐには答えが分からないほどには難しいが、わたしが飽きる前に解ける程度には簡単な問いを。事実わたしはそんな問いを見つけて、すでに何本かの論文を出している。

 

そして、論文は論文だ。一貫した好奇心からくる研究に比べて、わたしはわたしの研究を悪いとは思わない。よい研究とは、わたしがよいと思う研究だ。そして、わたしが読んでおもしろいと思う論文は、聞いて面白いと思う発表は、理解するための根気の足りる研究は、どれも誰かの気まぐれから生じたような見た目をしている。

 

気まぐれな研究が世界に必要かと言われれば、それはわからない。だがわたしは、研究の必要性には興味はない。世界がどうあれ、わたしはわたしがよいと思う研究をする。一貫したひとたちが快く思わなかろうが、わたしはわたしの気まぐれな感性を信じるつもりだ。

 

そして、自分への信頼というその一点だけは、一貫したひとたちとわたしで共通なはずだ。