わたしは、わたしを理解するのが好きだ。
世の中には、未知のものがたくさんある。そんなものに触れたとき、ひとはしばしば、自分でもとうてい予想できなかった行動をする。そしてそのとき、ひとは初めて、自分の知らなかった自分自身の姿に直面する。
だがその姿は、ほんらいその人のなかにあったものだ。ひとに新たな姿を見せてくれる予想外の事件は、べつにひとを瞬時に作り替えているわけではない。ただその特定の、これまでにたまたまあらわれてこなかった側面を、ただ明らかにしてくれるだけだ。
だから原理上、予想外の事件などなくても、わたしはわたしの未知の一面に気づけるはずだ。わたしはわたしであり、逃げも隠れもしない。わたしの姿をよりよく知るためにわたしがすべきことは、ずっとここにいるわたしを、よりつぶさに見続けることだ。断じて、予想外の事件を待ちわびて日々を過ごすことではない。
というふうに、わたしはわたしを多角的に理解したい。未知の事件にあたってわたしがどう行動するのか、わたしはあらかじめ把握しておきたい。わたしはわたしの、完璧なエミュレータを手に入れたい。そしてわたしは、わたし自身を完璧に支配したい。
そしてその欲求はどうやら、わたしに対してだけ向けられたものではなさそうだ。
わたしはおそらく、他人を理解するのが好きだ。だが他人は、わたしの理解を真に助けてはくれない。他人はわたしとちがって、ありのままのすがたをわたしにさらけ出してはくれないからだ。もしわたしが、誰かひとりだけを理解できればそれでよいのなら、わたしはわたしのことだけを考えて満足するだろう。どう考えても、それが一番簡単だからだ。
だがわたしの好奇心は、そんなに限定的ではないようだ。わたしはわたしのエミュレータだけではなく、他人のエミュレータも手に入れたい。目の前の状況で他人がどう行動するのか、じっさいの行動を見るまえに言い当てたい。わたしは、他人をも完璧に支配したい。
そして意外にも、その目標は無謀でもないのかもしれない。
たしかに他人は、わたしの見えないところでいくらでも行動している。だから、そのひとの本当の姿を、わたしが理解するのは難しいだろう。だがそれは、他者理解が困難な理由にはならない。わたしが理解するべきは、じっさいには、他人の真の姿ではないのだ。
他者理解の最高到達点はおそらく、その人の内面を完全に把握することではない。誰にだって、絶対に表に出せない姿は存在する。そして表に出ない以上、わたしは絶対に、その姿を知ることができない。
だが原理上、エミュレータはその姿を知る必要はない。表に出ない姿は、エミュレートしようがないからだ。仮にできたとしても、答え合わせのしようがないからだ。
というわけで、わたしは他人の、表に出ている姿を分析したい。他人の外面をあらわす、もっとも核心を突いたことばを見つけたい。他人が事件に巻き込まれたとき、わたしにどう行動してみせるかを言い当てたい。他人のことを、それで分かった気になりたい。
そしてそれが、望むべき最大のものだろう。わたしから見れば、わたしと他人とは、おそらく本質的に異なるのだ。