セルフ・エミュレータ

わたしは、わたしについて考えるのが好きだ。その趣味が高じて、わたしはこんな日記をつづけてきた。

 

といっても、わたしはわたしが好きなわけではない。分析において、自己肯定はただ、わたしの視野を狭くするだけだ。わたしはいまのわたしを、絶え間ない現状の肯定に基づく存在だと分析しているが、すくなくともその分析じたいは、自己肯定に基づいてはいないだろう。

 

だからといって、わたしはわたしを嫌いなわけでもない。自己肯定とおなじく、自己否定も分析の邪魔だ。わたしが好きなのは、あくまでわたしが何者かを考えることだ。わたしはわたしを、肯定も否定もしない。わたしはただ、観察しているだけだ。

 

せっかくなので、わたしを分析するわたしについて考えてみよう。まったく禅問答のような導入だ。そうでなければ、何かの構文に機械的にわたしを代入しただけの、よくある意味のないテキストだ。だがとりあえず、やってみることにしよう。

 

ひとつの分析では、わたしは人間観察が好きなのかもしれない。分析するのは、べつに誰でもいい。わたしはわたしを肯定も否定もしないから、すなわち、わたしだって本質的にはひとりの他人なのだ。

 

だが他者は、そうつぶさには観察できない。他者の内面は、残念ながら、わたしに直接見える形では存在しないからだ。わたしが見られるのは、他者の内面が反映されているらしき、具体的な行動だけ。そしてそれすらも、彼らがどう見られたいかに大きく歪められている。

 

そして、ただ人間を観察したいだけなら、もっといい対象がいる。その完璧に都合の良い彼はなんと、内面をつねにわたしにさらけ出している。それも、二十四時間ずっとだ。はたしてその彼とは。もちろん、わたし自身だ。

 

とはいえやはり、わたしは他人だって分析する。情報を得にくいからといって、わたしは、他者理解を完全に諦めているわけではない。もっとも、そのいとなみは、いわゆる「ひとの気持ちを考える」こととはだいぶ異なるだろう。なぜなら、「ひとの気持ちを考える」と言ったとき、そのことばは言外に、「そのひとが心地よくなるようにふるまう」という意味を含んでいるからだ。

 

他人を観察する悦びは、他人の助けになることではない。その他人の思考を読み、行動を予測し、次に何を言うかを完全に言い当てることだ。その他人の特徴を捉え、性格を把握し、より迫真のモノマネに成功したときだ。感情の動きを掌握し、特定の方向に誘導し、最高に鋭いことばの一撃を相手の心に突き刺したときだ。

 

そしてそれはそのまま、自分を観察する悦びでもある。わたしが他者をわたしのなかでデモンストレーションしたいのと同様に、わたしは自分自身のモデルも欲しいのだ。観察者としてのわたしは、わたし自身をより正確に近似し、エミュレートし、わたしならどう行動するかを、実際に行動することなく言い当てる。

 

観察するわたしは、そのエミュレータの性能に期待している。観察するわたしは観察されるわたしを、完全に支配しようともくろんでいる。あるいは、観察するわたし自身を。そして、それを可能にするだけのデータは、おそらくすべて、わたしのなかにある。