見えない穴を見ようとして

わたしはおそらく、人前で話すのが苦手だ。

 

といっても、べつに話すのが恥ずかしいわけではない。委縮して、ことばが出なくなるわけでもない。むしろその逆で、大声で堂々と話すことについて、わたしに不安はまったくない。

 

それどころか、話すのが嫌いなわけでもない。むしろ、わたしは話すのが好きだ。わたしがわたしの考えを書きたいのとまったく同じ原理で、わたしはわたしの考えを話したい。わたしがいいと思ったものを伝えるのは、わたしの喜びのひとつだ。

 

わたしが話すとき、わたしは自分の世界に入っている。そして、自分の世界を語るのは、ものすごく楽しい。それはちょうどこの瞬間、この文章を書く楽しさと同じだ。

 

にもかかわらず、わたしはおそらく、話すのが苦手だ。いや、正確に言えば、聞き手が何を理解していて、なにを理解していないかを知るのが苦手だ。話しているわたしはおそらくわたしの世界に入りすぎていて、聴衆がついてきていないことに気づかないのだ。

 

さて、わたしのなにがいけないのか。その話は数日ぶんの日記になりうるテーマだが、今日は深入りしないことにしよう。今日書きたいのは、わたしの話が、そもそもわたしのことばですらなかった場合の話だ。

 

昨日まで述べてきた通り、わたしはときに、わたしのものでないことばを語らなければならない。たとえば、研究の有用性。わたしの研究が有用かどうかなど、わたしにとってはどうでもいいことだ。だが、だからといって話さないわけにはいかない。世の中には、有用性を重視する人がたくさんいる。そして発表のつつがない進行のためには、わたしはそういう人の機嫌を取らなければならない。

 

というわけで、わたしの発表には、他人事のようなことばのかけらが紛れ込むことになる。そしてそれは、わたしから見れば、いちばんのツッコミどころだ。もしわたしが聴衆なら、わたしはそのことばに納得しないだろう。そしてじゅうぶん賢い人は、わたしのことばが張りぼてだと、すぐに気づくだろう。

 

だからわたしは、そのツッコミどころを補強しようと試みる。ツッコまれないようにわたしは、どうにかその穴を誤魔化そうとする。あるいは、突かれても滞りなく返答できるように、わたしは論理をこねくり回す。

 

だが残念ながらそれは、失敗を約束された試みだ。そこがツッコミどころなのは、わたしがわたしの論理に納得していないからだ。そしてわたしが納得していない以上、わたしは穴を誤魔化しきれない。ましてやその穴をふさぐまともな論理など、もはや言うまでもない。

 

そしてそれでも、わたしはどうにか悪あがきを準備する。

そしていざ、本番に臨むと。

質問は、わたしの予期していなかった方向から降ってくる。

 

わたしの問題は、おそらくこんなところだ。わたしは、聴衆がわたしと同じだと信じ込んでいる。だからわたしは、わたしの目に見える穴をふさぐ。だがその穴はかならずしも、聴衆の目に見えているわけではない。

 

そして聴衆に見える穴は逆に、ときにわたしには見えない。べつに、どちらの目がただしいわけでもない。単に、わたしは聴衆ではないし、聴衆はわたしではないということだ。

 

だがそれでも、穴はふさがねばならぬのが発表というものだ。見えない穴をふさぐというのは無理難題だ――だが、わたしは挑む必要がある。幸いなことにその穴は、見えさえすれば簡単にふさげるだろう。わたしに穴が見えないのは、わたしがその部分に納得しているということだからだ。

 

では、その穴はどうすれば見えるのだろうか?

 

それは、分からない。そんなことが分かれば苦労しない。だからわたしは、冒頭と同じ言葉で、この文章をしめることにしよう。わたしはだからこそ、人前で話すのが苦手なのだ。