認識と認識の不協和音

わたしはおそらく、人前で話すのが苦手だ。

 

きのうも述べた通り、それはわたしが気弱だったり、恥ずかしかったりするからではない。むしろはんたいに、発表を苦にしないくらいには、わたしは気が強いつもりだ。さらに言えば、ミスを指摘されても堂々と話しつづけられるくらいには、わたしは恥知らずのつもりだ。

 

もっと言えば、話すことじたいに、わたしは苦手意識はない。むしろわたしは、話すのは好きだ。わたしの話が順調なとき、わたしは一種の興奮状態へとのぼってゆく。本当のところは分からないが、おそらくそれは、麻薬の恍惚にも似ているのだろう。

 

そして問題は、その興奮が、まったくの独りよがりなことにある。

 

ほとんどの場合、わたしはわたしが発表する内容を理解している。だからわたしは、わたしが聴衆ならば理解できる発表をできる。そしてわたしはそれで楽しいから、発表は楽しいいとなみだということになる。

 

だが発表とは本来、聴衆になにかを伝えるためのものだ。わたしの自己満足のためのものではない。そして悪いことに、わたしが満足することは必ずしも、聴衆が満足することを意味しない。

 

そして実際、わたしは多くの場合、聴衆を満足させられない。その不満はわたしに、質問というかたちで降りかかってくる。より傲慢さを排して言えば、わたしの発表にはよく、聴衆を困らせるだけの穴がある。

 

世の中には二種類の質問がある。相手の話の内容を確認するための質問と、話を前に進めるための質問だ。前者はくだらなく、後者は建設的だ。そしてわたしの穴に降りかかるのはもちろん、前者の、くだらない質問の方だ。

 

わたしは質疑応答が苦手だ。わたしは自分の発表にわざわざ穴を設けたりはしないから、わたしの発表の穴はすなわち、わたしが認識していない穴だ。だからわたしは、質問をしてきた相手が何に詰まっているのか、しばらく理解できない。

 

そして質問相手も、その質問のなにが理解されていないのかを理解しえない。わたしに見えないその穴は、質問相手にとっては明確な穴だからだ。

 

だからわたしたちは、なにが穴なのかをめぐってちぐはぐな議論を続けることになる。双方にとって、その議論はもどかしい。ましてや、両方を理解している人には、見るに堪えないものだろう。

 

だが、おそらく。

 

いかにくだらなく見えても、その議論はおそらく必要だ。齟齬の解消とはそもそも、とてももどかしいプロセスなのだ。だからその噛み合わない応酬を、認識と認識の不協和音を、わたしは歓迎せねばならないだろう。

 

齟齬はもどかしいから、齟齬解消のプロセスは双方にとって不快だ。それを乗り越えた先にも、客観的に見て、べつに大した景色は待っていない。なんら建設的な議論などなく、ただ、互いの話の前提が共有されるだけだ。

 

だがそれでも、わたしは発表が好きだ。もしかすればわたしはマゾヒストで、その不快なプロセスが好きなのかもしれない。思い返せばわたしは、話の内容にも建設的な議論にも興味はなかったのだろう。わたしはただ、なにかひとつでも、非自明なことが伝わればよかったのだ。