不誠実性への復帰

日記において、誠実さは悪である。

 

ストーリーテリングにおいて、誠実さは悪である」――こんな書き出しで、わたしは昨日の日記をはじめた。そこでわたしは、ストーリーの面白さとは意外性だということ、そして意外性は不誠実な語りによって実現されることを述べた。

 

そしてそれから、わたしはそうでないストーリーもあることを、すなわちわたしの分析を誤りだということを述べた。だからわたしの書き出しこそが不誠実であり、面白い物語の一部に照らし合わせれば、その種の不誠実こそがわたしが獲得すべき表現技法だと結論付けた。

 

さて例によって、研究の話にうつることにしよう。研究の文章にはふつう、極限までの誠実さが要求される。論文は完全に神聖な文書であり、ほんの髪の毛の先ほどの誤りが、論文全体の価値を著しく棄損してしまうのだ。

 

ほんとうにそんな神聖さが必要かはわからないが、とにかく、おおくの研究者は正確性に並々ならぬ情熱を注いでいる。彼らの熱情は、怒りは、それどころか同業者の論文に対してだけにとどまらない。非専門の有名人の動画の事実誤認を、誰のものとも知らぬツイートの陰謀論を、彼らは親の仇が如く叩きのめす。誤った言及をこの世から殲滅せんとする彼らの正義感は、もはや偏執的と言った方がいいだろう。

 

わたしも研究者の端くれだから、その偏執を少なからず理解する。彼らほどの正義感も、熱意もこだわりもわたしにはないが、それでもなお、誤りはないほうがいいとわたしも思う。わたしは誤りに、決して頓着しないわけではない――誰かの誤りを許してあげることは、誤りに無関心でいるのとは違う話だ。

 

さてだが、その偏執狂だらけの世の中でも、自衛はそう難しくない。こと数学のような、正解が一つに定まる分野ならば。数学ではどんな命題にも正解はひとつだけあり、それ以外はすべて間違いだ。その明確な正解の上にいる限り、すくなくとも、間違いだと言われる心配はない。

 

そしてその正解は、かならず証明されねばならない。その性質も、数学における自衛の簡単さを特徴づけている。なぜなら、厳密さという誠実さをたもったまま正解へと至る道筋があることこそ、数学が証明と呼ぶものだからだ。

 

だがそれでも、間違わないためには技量を要する。証明には往々にして穴があるものだ。そしてだからこそわれわれは、常に厳密でいるための訓練を積んできた。そして、めったに間違わないだけの技術を身につけてきた。

 

そしてその技術がそのまま、わたしの日記の足枷になっている。

 

良い文章は、かならずしも論理的に厳密ではない。厳密が悪だとは言っていないが、すくなくとも、「厳密が悪だという意味ではない」などと注釈を入れる必要もない。だがわたしはわたしの厳密さの欠如が、論理に潜む行間が、どうしても気になってしまう。

 

わたしは夢想する。もしわたしがそんなものに気づかなければ、わたしの文章ははるかに自然なものになるだろうと。誤解を恐れ、ただリズムを悪くするだけの注釈を、各所にちりばめずに済むのだろうと。

 

だが一度見えてしまったものを、見えないことにはできない。だからわたしが身につけるべきは、厳密さを無視するための技術だろう。わたしの文章にある飛躍を、説明されていない部分を、説明しないままに済ます技術だろう。

 

どうすればそうできるのか、わたしにはわからない。だからこそ少しずつ、わたしは訓練していくしかない。非厳密性、不誠実性の支配する、社会復帰への訓練を。