常識を定義する

常識とは、ゆるやかな価値観の連帯だ。

 

わたしたちは、常識という社会の目に縛られている。誰かが非常識な行動をしたなら、そのひとはまわりのひとたちに、ルールを破ったとして糾弾されることになる。たとえそのルールが、法律にも契約書にも書かれていなかったとしても、だ。

 

そしてそれ以上に、常識はわたしたち自身を縛っている。わたしたちは知的な種族だから、こんな狡知を働かせることができる――ルールを破れば糾弾されるのなら、破らないように生きよう、と。そうしてひとは、自分から常識に縛られに行くことになる。あえて糾弾するひとがいなかろうが、そんなことは関係なく。

 

そんな社会が成立するのは、常識が共通認識だからだ。ひとが常識と呼ぶものは、たしかに個人個人で異なる。対立する二人の常識が、いさかいを勃発させることもあるだろう。だがそれでも全体として、常識はゆるやかに共有されているのだ。ゆるやかに、なんとなく、あいまいに。明文化されず、空気を読み合うことによって。

 

だがその共通認識とは、ほんとうに共通認識なのだろうか?

 

たしかに常識は、社会全体で共有されているように見える。というより、それが常識の定義だ。誰かの価値観のうち、社会で共通のものを常識と呼んでいるのだから。その点、常識とはきわめて民主的なシステムだと言えるだろう。

 

だがその民主主義は、厳密な多数決の手続きを経由したものではない。もちろん、それは仕方ない話だ。常識とはけっきょく不文律だから、選挙のしようも、統計の取りようもない。

 

そしてだからこそ、常識は共通認識とは限らない。より正確に言えば、みなが共通認識だと思っているものは、もしかすれば、「わたしを除いたみながそう思っているはずだ」とみなが思っている、という集団錯覚にすぎないかもしれない。

 

こんな話もある。一定数の小説は、主人公が社会をどう思っているかということが主題のひとつになっている。そんな主人公は、およそ常識というものに疑問を抱き、悩み、苦しんでいる。

 

そんな小説を読んだとき、わたしたちは衝撃を受け、こう感じる。これはまさしく、わたしのことだと。筆者はわたしの心を読み、わたしのことを書いてくれているのだと。現実にそんなことが起こるはずはないとは知っているが、思考を読まれているのでなければどうしてこの、異様なまでの共感が説明できようか?

 

……と、読んでいるときは思うのだが、考えてみれば原理は簡単だ。小説に書かれた内容が普遍的だった。とてつもなく非常識で挑戦的に見えるそれは、じつのところ、とてつもなくありふれて、ある意味では常識的だったのだ。

 

なにを常識とするか、これはおそらく共通認識だ。だが述べてきたように、それはあくまで、なにが常識なのかを共有しているだけに過ぎない。そして共有しているものは、かならずしも本心とは限らない。

 

だから、常識を定義するのは難しい。すくなくともそれは、「みながそう思っていること」ではない。「みながそう思っているはずだとみなが思っていること」という表現すら、正確ではないのかもしれない。

 

なぜなら、「みながそう思っているわけではない」と知っていてなお、常識は常識のままなのだから。