拝啓 見え透いたハッタリの受け手へ

研究はいつも、その意義とセットにされる。

 

論文を書くとき、研究者はまず最初に、その研究の意義を書く。執筆の時系列としては最後かもしれないが、とにかく論文の最初の部分に、なぜその研究をするのかをしたためる。

 

なぜそんなものを書くのかは、いまだによくわからない。おそらくその意義とやらに、並々ならぬ興味を抱いているひとが大勢いるのだろう。わたしがいつもすっかり読み飛ばして、いっさい考慮に入れずにいるそのパートは、しかしながら、論文を会議に通すにあたっては非常に重要な役割をはたすらしい。

 

さてその意義は、どのようにしてつくられるのだろう。一番健全なのは、研究者自身がその研究をするに至った経緯をそのまま書くことだ。「わたしは○○の問題を解決したく、この問題を設定しました」と。「わたしは△△理論をより体系化すべく、この部分を突き詰めました」と。

 

だがもちろん、そうやってまともな文章ができるのはまれだろう。多くの研究者がイントロダクションの執筆に苦労している以上、ほとんどの場合、実態はそう簡単ではないはずだ。だからこそわたしたちは、その経緯とやらにいくらかのハッタリを加え、体裁のととのった文章をつくりあげる。

 

そして結構な確率で、そのハッタリは見え透いている。

 

たとえば世の中には、こんな論文がある。その研究の中身はふつうの理論研究で、ある問題が難しいと証明して満足している。だがイントロダクションには、実世界のとあるマニアックな問題に取り組む意思が滔々と書かれている。

 

問題が難しいと証明することがどうして現実の問題を解決することにつながるのか、まずわたしには理解できない。だがそこには、それ以上に大きな矛盾がある。すなわち、その研究者が本気で実世界の問題を解きたいのなら、どうして理論研究などやっているのだろうか? じっさいに世を動かさんと努力するプロジェクトをではなく、それとはもっとも遠いところにあるはずの研究を?

 

さて、わたしは思う。そんなハッタリなら、書かない方がマシだと。研究の意義に興味がないわたしにすら、ド下手なこじつけに見えるのだ。その論文を査読する、意義を大切にしている研究者たちとって、そんな下手クソな嘘は、もはや愚弄にも等しいのではないか?

 

正確なところは、わたしにはわからない。わたしは意義に興味がないから、その著者のほうには同情できる。意義意義とうるさいひとたちに仕方なく書かされている、その駄文の著者に。

 

そして逆に、意義の側のひとには共感しにくい。だからもしかすると、そのハッタリは通用しているのかもしれない。そしてその事実は、意義の側の目が節穴であることを、必ずしも意味しないのかもしれない。

 

あるいは、意義の側も、みずからが無意味であると薄々感じているのかもしれない。だからこそ彼らは盲目になって、意義らしきものが堂々と語られていれば、なんでも意義だと錯覚するのかもしれない。他人の研究の意義を読むことで、間接的に、みずからの存在意義という幻想に縋りつこうとしているのかもしれない。

 

もちろんこれらはすべて、わたしの勝手な妄想だ。わたしは意義の側の人間を説明しようとは試みるが、当分のあいだ、共感はできないのだろう。だからもし、意義を大切に思っている読者がいれば、あなたの考えを聞かせて欲しい。ハッタリは見え透いているのか、そしてもし見え透いているのなら、それについてあなたはどう思っているのかを。