不文律と錯覚

ひとはみな、いろいろなことをやらされている。

 

ひとは社会生活をいとなむ生き物だ。いくら社会を嫌おうが、隠遁者じみた生活を送ろうとしようが、それでもひとは社会からは逃げられない。

 

いや、逃げられないというのは正確ではないかもしれない。なぜなら、社会がわたしたちを追ってきているわけではないのだから。わたしたちには一応、社会から独立する選択肢がある。どうしても社会が嫌なのなら、適当な山奥にでも入って、そこで木の実でも採って生きればいいのだ。

 

だがわたしたちはもちろん、そうはしない。現実問題、そうしないと生きていけないからだ。だから正確には、わたしたちは社会から逃げられないのではない。社会を、手放せないのだ。

 

社会を手放さずにいることには、いくらかの義務が伴う。たとえば、結んだ約束はなるべく守ること。法にはなるべく触れないこと。常識という名の暗黙の領域の境界線を、なるべく踏み越えないように行動すること。ひとはみな、二択を提示される――社会を手放すか、そういった義務を押し付けられるか。そうしてそれらを天秤にかけて、たいていのひとは後者を選ぶ。

 

さてでは、その義務とは、どこまでを指すのだろうか?

 

ある方面では、社会的義務の定義は厳密だ。たとえば、契約。雇用契約でも、家の賃貸契約でも、ひとは契約書に書かれたことを、書かれたとおりに守らねばならない。正確にいえばひとは、書かれたことを守るか、あるいは社会的罰則を受けるかのどちらかを選ばねばならない。

 

もしくは、法律。ひとはやはり、法で禁じられたなにごとをもしないか、あるいは罰を受けるかのどちらかを選ばなければならない。もっとも厳密に言えば、法解釈は非厳密だ。だが、今日はそういう話をしたいわけではない。

 

というわけで、ほんとうに非厳密な義務の話をしよう。世の中には、明文化されない義務がある。そしてそれは不文律だとか、あるいは常識だとか言われる。

 

常識というものは、さも厳密なような見た目をしている。あたかもそこには人類共通の確固とした理念があって、みなが同じ常識に従っているかのように。すくなくとも常識は、そうひとに錯覚させることで機能している。個人の感性を超えた、絶対的にただしい価値観があるのだと。

 

だがもちろん常識とは、個々人の感性に他ならない。そして社会常識とはあくまで、その感性のあいまいな重ね合わせに過ぎない。だが面白いことに、どの個人も、自分自身がその重ね合わせの中心にいると確信している。言い換えれば、社会すべてをおしなべてみれば、ひとの義務とは、自分が義務だと思うことと一致すると思い込んでいる。

 

そしてもちろん、そんなことはない。

 

じっさいには、ひとが義務だと思うことはかならずしも共通ではない。だから常識を信じるなら、そのひとの目にはしばしば、世の中の暗黙のルールを破るだれかの姿が見えることになる。そのひとの常識を破る、違う常識の誰かの姿を。

 

誰かが誰かの常識に従わなかったとき、後者の誰かは、前者の誰かに憤りを覚える。社会のためではなく、自分の感性のために。そして怒っているひとは、その自分本位の怒りを、社会のための義憤だと錯覚している。

 

そして面白いことにその怒りは、ときに自分自身にすら向けられる。

 

さて、今日はその自分自身への怒りについて書こうとしたが、前置きだけで十分書いてしまった。だから、そのテーマは明日に回すとしよう。わたしはわたしに、べつに一般常識でも何でもない暗黙のルールを課しているのだ。すなわち、書きすぎもせず、書かなさすぎもしないように、と。