形式的言語実験

わたしはわたしのことばだけを語りたい。すくなくとも、ここではそうしてきた。

 

さて、ことばとは偉大なシステムである。それは定説によれば、ひとの思考を規定すしている。ひとは言う、人間の思考とは、すべてことばによってなされるものなのだ、と。だからこそことばがなければ、ひとはまともに考えることすら不可能なのだ、と。

 

わたしはこの言説には懐疑的だ。その証拠に、わたしはしばしば、わたし自身の考えをことばにできない。どんなに煩雑で、わかりにくく、非芸術的なことばを許しても、わたしの思考はどうにも捕らえられない。もしことばこそが思考なのならば、どうしてそんなことがありえようか?

 

さて以上の議論は、ことばという対象の、意味という面に関する話だ。そしてわたしは、その面でのことばの支配性に疑問を持っている。だがそれでもわたしは、依然ことばの偉大さを信じている。

 

ことばの二面性の、もう片方の面の偉大さを。

すなわち、形式の面の偉大さを。

 

書かれたことばは文字列だ。あるいは話されたことばは、正弦波の適当な重ね合わせだ。そしてその文字列は、音声は、もっともプリミティブには、単なるデータとして取り扱うことができる。まるでそこに、意味などないかのように。

 

その意味でことばは形式だ。発されたことばは、それが発された方法を超えて独り歩きする。だれかの深遠な思想を表現したことばだろうが、ランダムな猿のタイピングが生み出したことばだろうが、データとして同じならば、それらは同じことばなのだ。

 

この議論は、わたしにひとつの知見をくれる。わたしが書けるものは、必ずしもわたしのことばだけではないという知見を。わたしは誰のことばだって、いや、もしかすると誰のものでもないことばだって、原理上は書くことができる。

 

さてわたしは最初に、ことばの意味の面の偉大さには懐疑的だと述べた。ひとは必ずしも、ことばを経由せずとも思考できるのだと。だがわたしは、ことばを経由した思考を否定したいわけではない。むしろ同時に、ことばは思考の有用なツールでもあるとわたしは思う。

 

ことばの有用性もまた、おそらくことばの形式面にある。考えてみればわたしたちは、しばしばことばを組合わせて新たな結論を得ている。そしてそのいとなみは、完全に形式的だ。たとえもとのことばが、意味の面からの深遠な洞察に基づいたものであっても。

 

そしてだからこそ、わたしたちは、他人の思考を取り入れることができる。

 

わたしたちがことばを扱うとき、わたしたちは、必ずしもその意味を理解しなくてもよい。ことばの形式性が、そんなぞんざいな扱いを可能にしてくれるからだ。わたしはことばという形式で、扱うことができる。わたしにはできない発想を。わたしにはない感情を。

 

わたしが思いつくことばは、必ずしもわたしのことばだけではない。だがそんなことばもまた、わたしの思考のうちだ。わたしは、わたしの本当の思いとは異なることばだって、いくらでも作り出すことができる。ことばにして初めて、その斬新さに気づくことばを。

 

さて、そんな形式的な思考だって、わたしの思考に他ならない。だからそう断った上なら、この日記に書いたっていいだろう。というわけでこれからは、そんな実験的な思考も、この場に書き連ねてゆくことにする。