意義の振り返り ➄

 研究の意義という名前で、わたし以外のひとたちが呼んでいたものの正体を、わたしはこの三年間で次第に理解するようになってきた。

 

 理解したかったわけではない。理解しようと努力したわけでもおそらくない。三年前、卒業するころの自分の姿としてなにかを思い描いていたわけではないけれど、かりにあったとしてそれは、意義なるものの正体を直感的に理解している自分ではなかった。

 

 なりたかったのはむしろ、意義をエミュレートできる自分であった。意義と呼ぶことのできるものを研究のどこにも感じることがなく、それでいて他人がなにを意義とみなすのかを推測し、利用できる能力が欲しかった。なんの意義も感じずに研究を行いつつ、わたしの論文にはれっきとした意義があるから学会はこれをアクセプトするべきのだということを主張する、優秀な詐欺師を目指そうとしていた。

 

 目的の半分は、ある程度達成されたと言ってもいい。研究者のあいだで意義と呼ばれるものの輪郭をわたしはぼんやりとつかみはじめ、それによって自分の研究の意義を語れるようになった。だがそれは、当初想定していたような格好いいものではなかった。意義なるものの正体を完全に暴くことで査読というシステムをハックするという部類の、最高にクールな虚飾をわたしは身につけられなかった。

 

 代わりに分かったのは、研究の意義なる概念は、どうしようもなく自己言及的に定義されるものでしかない、ということであった。

 

 わたしは最初、研究の意義を外部の物語に求めていた。外部とはこの場合一般社会である。つまり、ある研究が意義を持っていると主張するためには、それが紆余曲折を経ていずれは社会に還元されるという期待が必要だというわけだ。そうなる未来が容易に想像できないような研究は、意義のない研究だと定義するしかない。そしてもちろん、理論研究のおおかたはそうである。だからわたしは、理論研究に意義を求めるのはナンセンスだと結論付けた。

 

 だが、ひとびとの言う意義とは内在的なものにすぎなかった。ある研究は、その次の研究をもたらすために意義がある。意義を感じさせるストーリーは、意義を感じるという理由で査読に通り、そこに意義が認められているという理由で、後続の研究に意義がもたらされる。ある研究に意義があるのは、もとをたどれば結局、それに意義があるからに過ぎない。

 

 そう聞くと循環論法に聞こえる。だが意義なる概念が数学と異なる点は、アプリオリに認めるべき公理系が存在しないということだ。好む好まざるにかかわらずわたしたちはすでにその循環のなかにいるのであり、そして自分自身がそのなかにいる限り、循環論法は正しい。いずれ滅びる人類をいま存続させることを無意味だと断ずる態度は、もちろんきわめて正当で反駁不可能ではあるものの、現実に即していないために却下される。それと同じ論理である。