記号列を語る

わたしが発することのできることばは、原理上、わたしのことばだけではない。

 

もちろん、誰かがわたしの脳を操っているなどと言いたいわけではない。わたしはわたしを正常だと信じているし、そもそもオカルトに興味はない。たしかに原理上では、わたしのことばでは、わたしが操られている可能性は否定されえないだろう。だがだからといって、そんな与太話に付き合う道理はない。

 

現実の権力や暴力は、もっと現実的にわたしを操りうるものだ。じっさいそれは、ときにわたしが語りたくないものをわたしに語らせる。わたしが企画の価値を信じていなくても、それでも企画の価値は語らねばならない。わたしは絶対の正義を信じてなどいないが、それでも、正義の絶対性を前提にせねば収まらぬ場はある。

 

だがそんな話も、やはり今日はする気はない。わたしが何かに縛られて語らされる偽りのことばについては、しばらく前に書いた覚えがある。今日したいのは、反面、わたしが完全に正気で語る、真っ赤な嘘のことだ。

 

さて、概念はことばによって記号化される。ひとたび記号になれば、概念はもはやその当初の中身とは離れ、あらゆる手段で伝達される。

 

たとえば、哲学の概念。哲学者の名言――なんでもいいがたとえば、「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」――は、しばしばひじょうに難解な含蓄をはらんでいる。そして常人には、その意味を理解するのはとうてい不可能だ。

 

だがそのことばを伝えるのは簡単だ。おそらく三歳児ですら、教え込まれれば、こう伝えることはできる。「かたりえぬものについては、ちんもくしなければならない」と、そう幼稚園の先生に。そのときの三歳児は、ヴィトゲンシュタインの深遠な考察を理解しているわけでは断じてないだろう。だがそれでもその幼稚園児は、難解なことばを記号として伝達することには成功している。

 

さて、その幼稚園児にとって、例の偉大なことばは単なる記号の列に過ぎない。もしかするとその子は日本語文法を知っていて、それが未知の言語の呪文などではない、ということくらいはわかるかもしれない。だがどちらにせよその子が、その文を有機的なものとして理解していることは、断じてありえない。

 

そしてその点に、ことばの面白さのもう一片があるように思われる。

 

ことばは汎用的だ。汎用的すぎて、意味を持たないことばだって語られうる。存在しえない世界、成立しえない命題。「この文章は誤りである」という文章。それらの中身は有機的な意味を持ちえないが、だがそれでも、とりあえず語ることはできる。

 

さてだからこそ、わたしの語ることばは、わたしのものだとは限らない。なぜならどんな内容だって、いや内容のないことばだって、わたしは語る能力をもつからだ。そこには意見も、個別性もない。ただ完全なる形式だけが、文章の上に寝そべっているだけだ。

 

ではそのことばは、どこから来るのか。ほんらいはそれについて書きたかったが、例によってそこまで行きつかなかった。というわけで、今日はこれでおしまいにする。とりあえず今日のところは、この最後の問いだって、わたしのことばだとは限らない、と述べておくにとどめるとしよう。