異常性という常識

ここ数回の日記で、わたしは常識というものの性質について書いてきた。書いたことをまとめれば、以下のようになる。

 

まず常識とは、世の中のひとが従うべきだとされている、暗黙のルールのことだ。ルールだが、法や契約と違い、はっきりと明文化されていない。

 

明文化されないのは、常識が個々人の感性の寄せ集めだからだ。そこには明確な合意も厳密性もない以上、だれかとだれかの常識はいくらでも衝突しうる。だがそれでも常識は、明文化された規則では取り扱えない社会の穴を、おそらく埋めてくれている。

 

個々人の感性の寄せ集めと書いたが、じっさいのところ、常識は個々人がほんとうに感じていることの寄せ集めではないかもしれない。正確を期すためには自己言及的になるが、常識とは、個々人が常識だと思っていることの寄せ集めである。すなわち、たとえほとんどのひとがその常識をおかしいと思っていても、歴史の遺物だと思っていても、それでも常識が常識であることには変わりないのだ。

 

そんな歴史の遺物には、おおくのひとが困らされている。そしてその常識に対する一般的な態度は――言い換えるならそれは、その常識に関する常識は――ある種の二重思考の原理に基づいている。すなわち、その常識にはまず、従うのが常識だ。そして同時に、その常識を心の内で非難し、なくしてほしいと願うこともまた、常識だ。みながなくしてほしいと思っているという事実は常識だし、同時にそれをなくさないことも常識なのだ。

 

さて、べつにわたしは二重思考を悪いと言うつもりはない。そんな矛盾した思考は、誰しも持っているものだ。だがその矛盾は、もしかすると、わたしにひとつの行動指針をくれるかもしれない。

 

二重思考的な常識は、そうでない常識と比べておそらく破りやすい。なぜならおおくの人が、その常識をおかしいと思っているからだ。だからわたしは、ある程度の打算をもって常識に刃向かうことができる。常識が異常であることが常識であるかぎり、わたしの味方になってくれるひとは大勢いるだろう、という打算を。

 

その打算がほんとうにただしいかどうかは、いったんおいておくことにしよう。じつのところそのただしさは、ほとんど評価不可能だ。世の中が再現不可能である以上、ある突飛な行動の報酬は見積もれたものではない。

 

さて、常識から外れるうえでのいちばんの問題はおそらく、特定の常識が異常だという常識を、どのようにして知るかだ。

 

異常な常識だって常識だ。だからそれを、明示的に批判するのはリスクだ。だからこそ、その常識を憎んでいることを、ことばに出すひとは多くない。すなわち、常識の異常性が本当に常識だと確信するのは、なかなか難しい作業になる。

 

結局、行動の根拠になる情報はふたつだけだ。ひととの会話によって、その難しい作業を根気よく続けるか。あるいはその作業は不可能だとあきらめて、己が常識と信じて突き進むか。

 

わたしの根拠がただしいかは、やってみるまでわからない。いや、やってみても分からないかもしれない。だがどちらにせよ、常識が異常なのが常識なのだと見破った先の景色を、わたしは眺めてみたい。