誠実は悪である

ストーリーテリングにおいて、誠実さは悪だ。

 

ストーリーを読むとき、読者は、その先の展開を予想しながら読む。読者の頭の中には、ストーリーのどの時点でも、そのとき与えられている情報に照らし合わせてもっともそれらしい結末が居座っている。主人公が上手くいっていれば、輝かしい未来が。逆に絶望的な状況なら、耐えがたき敗北の恥辱が。

 

ストーリーの類型に慣れた読者は、それほど単純ではない。そんな読者は、主人公の早すぎる成功から、すべてをひっくり返すほどの絶望の気配を察知する。逆に、どんな絶望的な状況であれ、物語の風味や対象層から、絶対にハッピーエンドになることを予期していることもある。

 

だがどちらにせよ、読者の頭の中に、ある種の予測が存在するのに違いはない。読者が素直だろうが斜に構えていようが、そんなことは構わない。

 

そしてその予測が裏切られることこそ、文章を読む醍醐味と言えるだろう。

 

さて、世の中には、そんなどんでん返しを受け付けない表現媒体もある。たとえば、論文。論文のどの時点でも、著者は読者に誤解を与えてはならない。あとで誤解を解く予定があったとしても、それはタブーなのだ。ある意味論文の文章は、つまらなくなければならない。

 

ほかには、ニュース。報道の文章は、一部だけを読んでもただしく伝わるよう、注意して書かれなければならない。報道でデマが広がれば、それは報道の側の責任だからだ。もっとも、週刊誌やネットニュースには、記事にわざとセンセーショナルなタイトルをつけて目を引くテクニックが存在する。だが多くの人が、その手法をあさましく思っているのもまた事実だろう。

 

さて、では日記はどうか。日記は、わたしの個人的な経験や内面を書くものだ。そしてそんなものは、最終的にただしく伝わればそれでいい。誤解がないことよりも、文章が面白いことの方がよほど重要だ。

 

さらにいえば、仮にある読者が文章をきちんと読まなかったとして、困るのはわたしだけだ。わたしの責任で書いている以上、誤解されることに問題はない。というわけで日記はおそらく、誤解を与えてもよい媒体だ。

 

というわけで、話は冒頭に戻る。わたしは冒頭で、誠実さは悪だと書いた。だが世の中には、正義だとか悪だとか言いきれる概念は多くない。そして、主人公に見えているすべての情報を誤解なく与えながら、それでも面白いストーリーテリングはごまんとある。

 

だから、冒頭のわたしのことばは間違いだ。それでもわたしが嘘を書いたのは、誠実さを悪だと言ったのは、ほんとうに誠実さを断罪するためではない。むしろそれは、この文章が誠実でないことをあらわすための、一種の枕詞だ。

 

さてでは、どうしてそんなことをする必要があったのか。ほんとうに誠実でない文章を書きたいのなら、そんな枕詞など書かなければよいはずだ。あらかじめの言い訳なんて必要ない、最初から堂々と嘘を書けばよい。

 

そしてわたしがそうできない理由を、わたしは明確に知っている。

わたし自身の誠実さが、言い訳を必要としたからだ。

 

日記において、誠実さは悪だ。それがわたしの、書く自由を縛り付ける限りにおいては。したい表現をできなくするための足枷として機能する限りは。

 

誠実さの重視される界隈で過ごし、わたしは、わたしに誠実さを要求しすぎるようになってしまった。だがわたしは、自由な表現を試みたい。誠実という縛りから自由になりたい。そしてそのためには、わたし自身の誠実さを、意図的に捨て去らねばならない。

 

そのために、わたしは今日この日記を書いた。この日記でわたしが、じゅうぶんに不誠実になれたのかは分からない。だがすくなくとも、今日この日をわたしは、わたしが不誠実でいるための第一歩にするつもりだ。