語りの場のハードル

ハッタリを語るのは、ハッタリを書くよりもはるかに難しい。

 

わたしはこれまで、何度もハッタリの申請書を書いてきた。大学院の願書や、某予算の選考のために。そんな書類でわたしは、わたしの研究がいかに役立つか、あるいはいかに素晴らしい分野を切り拓くのかを語ってきた。

 

もちろん、わたしはわたしの研究が役立つとも、新たな分野を切り拓くとも思っていない。そんなことにわたしは興味はないし、そもそも、未来を計画するのは好きではない。それでもなおわたしがわたしの研究を賞賛して書くのは、単にそのための欄があるからに過ぎない。

 

当然ながら、わたしはわたしの研究の未来なんて考えない。いつだって楽しいのは、目の前の論文を出すことだからだ。後先考えず、わたしはただ問題を考える。そうして論文が通れば、そのテーマとは、晴れておさらばだ。

 

一応もしかすると、それでも研究の未来は考えた方が幸せなのかもしれない。出した論文の先に次のテーマがあれば、すくなくともわたしは、テーマ探しを一回だけサボれることになる。だがそこにある喜びは、あくまでわたしが楽をできるということだ。断じて、理論を建設する喜びではない。

 

さて、だからといって、わたしが申請書を書けないわけではない。申請書を書くとき、わたしはわたしの脳内をひっくりかえして、どうにかわたしの研究の未来をでっちあげる。未来の予知不能性を盾に取った、素っ頓狂で非現実的で、おまけにご都合主義の未来を。

 

わたしの計画はとんだでっちあげだが、ある意味では、わたしはいちから未来を妄想しているわけではない。わたしの研究はてんでバラバラだから、まずはわたしはそれらをうまくこじつけて、つなぎ合わせる。そしてそのつぎはぎを眺め続ければ、わたしに語りうる未来の姿は限られていることがわかる。その必然性の中に浮かび上がるどうでもいい未来を、わたしはどうにか文章のかたちにする。

 

わたしの研究はランダムだ。そして、わたしの研究の未来とは、そのランダムネスの中に法則性を見出さんとする、統計学上は禁断の努力の結果に他ならない。

 

そしてその法則は、わたしが申請する先という巨大な門に頭をぶつけない程度にはよくできている。わたしにだってその張りぼては、詳しく読まなければそれらしく見えるのだ。

 

さてだが、語るとなると話は異なる。語りたくもない研究計画をわたしが語ったとき、わたしは相手が納得していないと知っている。質問が来たなら、わたしはすべてハッタリだと白状して逃げ出したくなる。なぜならわたしは、わたしの計画の意義が理解できないという相手の立場に、百パーセント同意するからだ。

 

いやそもそも、わたしの計画が有意義だと思わせることじたいが無理な話だ。そのためにはまず、わたしの話を理解させてはならない。理解すれば、無意味だとばれるから。だが、理解させないのもダメだ。それは相手にとって、単によくわからない話に過ぎないからだ。

 

わたしは相手に、わたしの計画を曲解させなければならない。

 

だがどうして、そんなことが可能だろうか? なにせわたし自身でも、自分がなにを語っているのかよくわかっていないのだ。わたしがわかっていることを伝えるのにすら技術と努力が必要なのに、わたしにわからないことをどうして伝えられるだろうか?

 

さて、文句はこれくらいにして、冒頭の問いに戻ろう。なぜ、書くと語るとではこうも異なるのだろう? こう書いてきてわたしは、書くことと語ることのあいだにことなるハードルを設定しているように思えてきた。わたしが書くとき、わたしはわたしの文章の見た目、それっぽさだけを重視していた。だが語ることになった瞬間、わたしは相手を納得させにかかっている。

 

どうしてこうなったのか、それはよくわからない。わたしは語りのハードルを下げるべきだとは思うが、どうすれば下がるのかもわからない。おそらくそれは、一朝一夕で解決する問題ではないのだろう。

 

さて、今日は本当はもっと先まで行けるつもりだった。だからこの文章は、書きたかったところまで行きつかずに中途半端に終わったことになる。だがすくなくとも、詳しく読まなければ、この文章はそれっぽい。というわけで、そのそれっぽい方針にとりあえず従って、明日こそは、語りの問題について書いていくことにしよう。