意義の振り返り ⑥

 意義のある研究は、意義が認められるがゆえに意味がある。研究の意義という名前で呼ばれているものは、どこまで突き詰めたところで、そういう自己言及的な方法で定義されるものである。そしてこの文章は、そのことをまだ理解していなかった三年前の自分に対する一種の指南書である。

 

 抽象的すぎるから、もうすこし噛み砕いて説明しよう。三年前の自分に分かってもらえる程度に、である。下世話な話だが、あのころのわたしはきっとその手の話のほうに、むしろ説得力を感じることだろう。

 

 論文とは、査読を通すために書くものである。これに反論はあるまい。理想に燃えてツイッターで騒ぐタイプのひとたちはこういうことばを絶対に受け入れないだろうし、それはそれで結構なことだけれど、すくなくともわたしはそういうタイプではない。研究を論文を通す競技だと理解することに、さしたる抵抗はないはずだ。

 

 それはさておき研究というのはたいてい、ゼロからスタートするいとなみではない。研究者の多くは既存の論文や発表を見て、じゃあこの場合はどうだろう、ここをこう変えて見るとどうなるだろう、というふうに問題を設定する。研究者という職はツイッターで言われているよりだいぶ暇だが、それでも完全に暇なわけではないので、読む論文はなるべく、自分の研究につながるものにしたい。

 

 自分の研究につながるというのはつまり、査読を通せる論文につながるアイデアをもたらしてくれるという意味だ。そして査読とは、研究者が読みたい論文を選別するプロセスだとみなすことができる。

 

 かくしてここに循環が発生する。査読に通るのはつまり、査読を通せる論文をたくさん生み出せるポテンシャルを持った論文だ。そしてわたしたちがすでにその仕組みのなかにいる以上、循環をまわすのに追加の動力源は必要ない。査読に通るがゆえに査読に通る、理由はそれだけで十分なのだ。

 

 三年前のわたしもきっと、すくなくとも無意識にはこのことを理解していたはずだ。とはいえそれを意義のある研究だとか、良い研究だとか呼ぶことにはかなりの抵抗があっただろう。だからいまのわたしは、せめてものけじめとして、その循環に身を任せるだけのことを、意義だとか良さだとかいうことばで呼ばないことにする。意義と呼ばれているものの正体をわたしは把握し、ペテンではなく感覚的にそれに従うことができるようになってしまったが、それはべつに、あのころ意義と呼ばなかったものに、あのころ意義だと感じていたような意味で、意義を感じるようになったという意味ではない。

 

 これできっと、あのころのわたしは納得するだろうか?