嘘と真実の波間で

ここ数年間ずっと、わたしはわたしに興味がある。

 

その興味は、じっくりとした積み重ね式のものだ。それは基礎科学の研究者がひとつの「なぜ」に向き合うのにも似て、わたしの心の中に、たえず形を変えながら存在し続けている。じぶんの研究にこそその種の興味は持てそうにないが、わたしはそのかわり、わたし自身を落ち着いて研究している。

 

さて、わたし自身に関する研究には、数学の研究とはいくつか異なる点がある。昨日はその一点について触れたが、それは、わたし自身についての問いにはすぐに答えを出せる点だ。数学と違って内省に証明は必要ないから、答えの質さえ問わなければ、わたしはわたしをいかようにも説明できるのだ。

 

そうして得られた答えは、的を射ていることも射ていないこともある。わたしはこの日記にそんな答えをたくさん書いてきたが、それらの質はピンキリだ。なにせ、わたしは数時間という短い時間で、わたしを分析して文章にしようとしているのだから。

 

というわけで、わたしはわたしの分析を鵜呑みにはできない。それはあまりにも危険だ。本当のことを言えば、わたしには日記を読み返す作業が必要かもしれない。そして、どの日のことばが真実でどの日のことばが大嘘なのか、しっかりと吟味する必要があるだろう。

 

だがわたしには、そんなことはできない。わたしにそんな気はないからだ。正確に言えば、わたしは、わたしがわたしに関して行ったある分析を信じている。わたしが、やる気の出ないことを絶対にできない人間だという分析を。

 

というわけでわたしは、どの分析が真実に近かったのかは分からない。もっと悪いことには、わたしは過去の分析結果を完全に忘れているかもしれない。確かにわたしは、わたしに関しての分析を、日記のかたちでつぶさに記録に残してきた。だがせっかく残した記録だって、読み返されなければないのと同じなのだ。

 

だがそれでも、わたしは内省の力を信じている。真実か嘘かにかかわらず、わたしを変えてはいると確信している。より正確にはわたしは、わたし自身を分析するという行為自体が、わたしの姿をすこしずつ動かしていると分析している。

 

たくさんの分析を集めたところで、それが統計的に真実に近い保証はない。だが真実だろうがそうでなかろうが、分析結果はわたしを、わたしが次に考えることを変えてゆく。だから、仮に分析した時点で真実でないとしても、分析によってそれは、すこしだけ真実に近づくのだろう。

 

そしてだからこそ、分析は楽しいのだ。わたしの分析は、不正確かもしれないがすくなくとも真摯なつもりで、わたしを望む方向に変える意図はない。だからわたしは分析によって、わたしが意図しない方向へと変化してゆく。

 

もしわたしが完全にソリッドな存在で、わたしの分析によってまったく変化を遂げないのならば、わたしは変わり映えのないわたし自身に飽きていただろう。だがわたしは変化する。嘘と真実の波間を、わたしはゆっくりと漂うのだ。そして、漂うものを追うのは、楽しい。

 

それこそ、わたしがわたしにこれまで興味を持ち続けられた理由かもしれない。