2021-01-01から1年間の記事一覧

カンニバル食堂 30

「うぐぅ」「きゃっ」 ふたりは衝突し、それぞれの悲鳴が床下に響いた。 「離せって言っただろ!」 ステファンはキャサリンをはねのけた。彼女の身体はステファンの上半身を真逆の向きでしっかりと覆っており、脇に転がすのにはそれなりの筋力を要した。右手…

カンニバル食堂 29

両腕を穴のふちにかけたまま、ステファンは動きを止めた。キャサリンはうつむいて、どうやらステファンには気づいていないようすだった。 ステファンは状況を飲み込めなかった。走り、踏まれ、もみくちゃにされながらたどり着いた、かりそめの安息の地。だが…

カンニバル食堂 28

洪水のように、全裸の人間が押し寄せた。 なにかに顔を蹴られ、ステファンは倒れた。先ほど痛めた腰をふたたび地面に強打し、ステファンは思わずうめき声を上げた。 その間にも、ステファンの開けた扉からは大量の個体が流れ出してきていた。小さく、しかし…

カンニバル食堂 27

ベルトコンベアが行き止まり、ステファンの旅路の終わりを告げた。 「畜生め」 ステファンは悪態をついた。 ボブたちのもとへ帰りつく手がかりは、いまや完全に失われていた。 いや、そんなことはだいぶ前から分かっていた。ステファンは夢想家ではない。す…

カンニバル食堂 26

足元の流れに逆らいながら、ステファンは進んだ。天井のセンサー付きのライトが、ベルトコンベアとは逆順に点灯し、ステファンの行く先を照らしていた。上に行く枝分かれも無数にあり、おそらくそのすべてが、どこかの部屋か、あるいは監獄につながっている…

カンニバル食堂 25

努めて静かに、ステファンは動いた。 寝息を立てるアンナと、恍惚のなかのボブ。そのあたらしい父娘の幻想の帳に、脱出と告発という身体性の槍を突き立ててはいけない。だが常夜灯の薄闇の中、それは思ったより困難だった。 穴の中の突起にかかとが触れ、乾…

カンニバル食堂 24

ボブはアンナの寝顔を、見たこともないほど穏やかな顔で見つめていた。その恍惚はカリフォルニアの太陽のように曇りなく、それでいて、絹のカーテンを透かしたようにやわらかだった。 小一時間ほどのあいだ、ボブはそうしていた。その目には膝の上の天使だけ…

カンニバル食堂 23

アンナが部屋に身体を持ち上げるやいなや、ボブはしゃがみ込んで目線を合わせた。 意外なことに、ボブから先ほどまでの血気は消え失せていた。ステファンはボブの目に、脱出口を見出したことへの希望も、安堵すらも見出さなかった。かわりにその目は、まるで…

カンニバル食堂 22

「来たみたいだ」 床に耳を当てながら、ステファンは言った。その耳には、救世主かもしれないものの到来を告げる、福音のようなノック音が響いていた。 「おう」 ボブは言った。「ノックを返したら、離れろ」 言う通りにすると、福音が確かな形を取った。大…

カンニバル食堂 21

「おーい、誰かいるか? 聞いてるぞ」 壁に口を当て、ステファンは言った。 「なにも聞こえないな」 ボブのほうは、壁に耳を当て、向こうの何かを聞こうと試していた。「声が小さいのかもしれねぇ」 先ほどのメッセージは、ふたりにとっての希望の象形だった…

カンニバル食堂 ⑳

「誰かいるのか?」 壁に向かって、ステファンは叫んだ。 「違うぞ、ステファン。『たれかある』だ」 ボブは言った。ステファンはボブを無視して言い続けた。「誰かいるのか?」 返事はなかった。 ボブを信じたのはだいたい正解で、そしてすこしは間違いだっ…

カンニバル食堂 ⑲

「真実を見出すには、常に粘り強くなきゃならんからな」 言うや否や、ボブは部屋中を歩き出した。まだ見ぬ脱出口を探して。まだ見ぬ真実を探して。その足取りは軽快だった。とても、閉じ込められたひげもじゃの男とは思えないほどに。 ステファンも、ボブに…

カンニバル食堂 ⑱

「……で、どうやって穴をあけるんだ」 一見してなにもない床を目の前に、二人の男が立ちすくんでいた。 「それが分かってたら、そもそもここであんたに会うことはなかっただろうな」 ボブは言った。けだるげにあごひげに当てられた両手が、彼がとうにあきらめ…

カンニバル食堂 ⑰

薄暮の部屋に、ひとりの少女が佇んでいた。 否、生物学的に言えば、そこにいるのはひとりではなかった。その部屋には、きっかり百一個体の、九歳のホモ・サピエンスの雌たちがおさめられていた。 だがその中で少女と呼べる個体は、人格を持ったひとりの人間…

カンニバル食堂 ⑯

「どうせそんなことだろうと思ったよ。やはりお前は妄想が過ぎる。もういいか? 話を進めても」 ボブの無根拠な発想に、ステファンは呆れて言った。 「勝手に言ってろよ。せいぜい、目の前の真実にすら気づかないまま一生を終えればいいさ」 ボブはあからさ…

カンニバル食堂 ⑮

「とにかく、ここを出る方法を考えよう」 ステファンは高らかに宣言した。 「そうだな」 ボブは同意した。「あんたと同意見ってのは珍しいもんだ」 「それはこちらのセリフだ」 ステファンは言い返した。「オカルトマニアのでたらめに、いちいち合わせていた…

カンニバル食堂 ⑭

その部屋の壁は真っ白で、監獄と呼ぶには少々広すぎ、そして綺麗すぎた。囚人のひとりはスーツ姿で、上着の角ばった肩は囚人というよりはむしろ、監獄に視察に訪れた高級官僚のようだった。 もうひとりの男は彼よりすこし若く、派手な色のシャツにチノパンの…

カンニバル食堂 ⑬

ステファンは取り囲まれ、先ほど駆けた廊下を連行された。 左右に並ぶ、無数の扉。そのひとつひとつが、そこからの絶え間ない雑音の一音一音が、ステファンの人生最大の絶望に相当した。 ただでさえ、捕まるのは良くないことだ。そしてあろうことか、今回ス…

カンニバル食堂 ⑫

「……お知り合いかしら?」 キャサリンが最初に沈黙を破った。その声にすでに柔らかさはなかった。引き締まった表情が、彼女の非情な合理主義を鋭く告げていた。 「大学時代の同期でね」 アーロン・ヘイズ博士は答えた。キャサリンの疑いの目に、ステファンは…

カンニバル食堂 ⑪

オフィスは広々として、社員はまばらだった。入ってすぐのテーブルでは、事務員と思わしき社員が数人、それぞれのディスプレイを眺めていた。そのうちのひとり、いちばん恰幅のいい男性が、机の上のコーラに数秒おきに口をつけていた。 「はじめてお目にかか…

カンニバル食堂 ⑩

訊きたいことが山ほどあった。 ランダムノイズの長い廊下を進みながら、ステファンはまずなにから訊ねたものか考えた。同じことを訊くのでも、そこまでの質問の順序によって、相手の返答はまったく異なってくる。だから訊く前にまず、どう訊くかを念入りに考…

カンニバル食堂 ⑨

実感はなかなかやってこなかった。 最初のうち、ステファンは意外なほどに冷静だった。リチャードという皮をかぶる努力の成果か、ステファンは自分自身の感情を、まるで双眼鏡を逆からのぞいたときのように遠く感じていた。冷静さの原因はあるいは、工場の中…

カンニバル食堂 ⑧

作戦は順調だった。キャサリンは、ステファンに――得意先のふりをしている人肉協会のスパイに――工場のオフィスを見せて回った。長くまっすぐな廊下、左右には中の見えない会議室。カリフォルニアという州じたいの単調さを差し引いてなお異常なその長さは、そ…

カンニバル食堂 ⑦

ステファンが通されたのは、東の窓に面した応接室だった。その部屋は自宅のリビングほどのサイズで、中央に真新しいテーブルが備え付けられていた。部屋の角では、貧相な観葉植物がカリフォルニアの太陽に当然の敗北を喫していた。そしてそのすべてが、まる…

カンニバル食堂 ⑥

ひさびさの分岐を、タクシーは右に折れた。その小さな道の表面はほとんど砂塵に埋もれ、曲がり角の標識がなしでは、存在していることにすら気づかれないように思われた。 その脇道に値するくらい、オークランド精肉工場はあいまいな存在だった。調べども調べ…

カンニバル食堂 ⑤

くだんの工場は、空港から七十マイル東の砂漠の中だった。ステファンが行先を示すと、タクシーの運転手は嫌悪をまったく隠さなかった。「帰りも付き合うのはごめんだぞ」 結局、機内で作戦は練られなかった。機内のインターネットサービスで、ステファンはオ…

カンニバル食堂 ④

サンフランシスコ行きの飛行機までには、まだ二時間ほどの猶予があった。ステファンは手荷物検査を済ませると――いい加減な検査官で、ステファンは愛用のペーパーナイフを失わずに済んだ――ラウンジの柔らかな椅子に腰を落ち着けた。はす向かいの席には成金風…

カンニバル食堂 ③

「何の話だか分かんねぇな」リチャード・コールマンはしらをきった。部位ごとにずらりと並んだ人肉が、プラスチックのパッケージを超えて、むせかえるような退廃をにおわせていた。 「いいか、コールマン。俺はもう二十年、この業界でやってきてるんだ」ステ…

カンニバル食堂 ②

郊外の荒れ地の殺風景にあって、コールマン食肉卸店は異質なまでの存在感を放っていた。それはまるで、この黄土色の大地に降り立ったエイリアンの拠点のようで、砂漠の日光を容赦なく反射して銀色にきらめいていた。 ステファンが工場に近づくと、工場の壁の…

カンニバル食堂 ①

ステファン・ロイドが厨房に入ると、うっすらと焦げた人肉の香ばしさが鼻をついた。圧力鍋から漏れ出すその香りからゴムの臭いが消えていることに、ステファンは数か月前から勘づいていた。壁の油まみれのホワイトボードを一瞥すると、最近の肉はフロリダか…