カンニバル食堂 23

アンナが部屋に身体を持ち上げるやいなや、ボブはしゃがみ込んで目線を合わせた。

 

意外なことに、ボブから先ほどまでの血気は消え失せていた。ステファンはボブの目に、脱出口を見出したことへの希望も、安堵すらも見出さなかった。かわりにその目は、まるで学校でいじめられた娘を慰めるよき父親のような、やりきれない親身さが憤怒に燃え上がっていた。

 

「ようこそ、お嬢ちゃん、つらかっただろう」 ボブが言うと、この部屋の無機質は、新しい父親を迎え入れる家の、ぎこちないリビングになった。ここにあるのは、脱獄という共通の目的のためにはかりごとを行う、大人と子供の事務的な利害関係ではない。新しい家族の、初々しい親愛の姿なのだ。

 

……ただ、娘役が全裸であると言う一点を除いて。

 

「とりあえず、服を着てくれ」 ステファンは部屋の隅に行くと、たたまれたコートを拾い上げ、アンナに渡した。「だいぶ大きいが、すまない。これで我慢してくれ」

 

アンナは機械的に手を差し出したが、その目には戸惑いが浮かんでいた。もしかするとアンナは、服というものを知らないかもしれない、ステファンはそう思った。アンナの出自はわからないが、この工場にいるということは、そういう可能性も否定できない。

 

ボブは、ステファンがただしく打ち解けるための段階を踏まなかったことに憤っているようだった。アンナの目を盗んで、ボブはステファンに囁いた。「それはあとでいいだろ」

 

「……すまん」 ステファンはつぶやいた。

 

だがアンナはしっかり者だった。彼女はコートを受け取ると、袖に両腕を通した。あまりにぶかぶかな風体に、ステファンは言った。「無理をして着なくても構わないよ」

 

「ううん、ありがとう、えっと……」 アンナはふたりの顔を見比べた。「……ボブ?」

 

「ステファンだ」 とステファン。「あっちがボブ」

 

「ごめんなさい、まちがえちゃって」 まるで殴られる準備をするかのように、アンナは肩をすぼめて言った。しまった、そうステファンは思い、やさしそうに見える表情を浮かべるように懸命に努めた。

 

おそるおそる、アンナは口を開いた。「……あの、むこうからのこえだと、わからないから」

 

「いいんだよ、ごめんな。ここに来たからには、なにも心配することはないんだよ」 ボブは言い、ステファンをふたたびたしなめた。「なんでわざわざ訂正するんだ。いまはどっちでもいいじゃないか」

 

「……すまん。つい……」 ステファンはふたたび謝ろうとした。だが、アンナのことばがそれを遮った。「ほんとう? しんぱいない?」

 

「ああ、心配ないさ」 ボブが答えた。

 

アンナの目には不安が浮かんでいた。「だいじょうぶ? わたし、いっしょにすごせる?」

 

「だいじょうぶだよ。アンナは強い子だからね」 ボブは言い切った。

 

「どうしてそうおもうの?」 探るように、アンナは訊いた。

 

ボブはひげをつまみ、指を鳴らした。印象的なしぐさ。「どれだけかもわからない日々を、向こうで耐えてきたんだろ。それなら、こっちでの生活なんてへっちゃらさ」

 

「たえて、きた……」 アンナは呟くと。

 

次の瞬間、ボブの胸へと飛び込み、堰を切ったように泣き出した。

 

ステファンには、その涙の意味は判断できなかった――それは、解放の喜びなのだろうか? それとも、変わらぬ拘禁への絶望なのだろうか?

 

そして、悪気はなかったとはいえ、ステファン自身が彼女を泣かせてしまったのだろうか?

 

わからない。わからなかった。だがひとつだけ、確かなことがあった。そして、それはいま、最も重要なことだった。

 

すなわち。

 

ボブは。ボブのほうはどうやら、アンナの信頼を勝ち得たようだ。