モチーフとハードル

科学よりもあとから生まれたサイエンス・フィクションというジャンルは、そもそものはじめから、現実の科学の影響下にある。そして科学が変質するにつれ、それをもとにした物語の流行もまた同時に変わっていった、そういう歴史がある。

 

いくつかの科学的モチーフはとくに、フィクションに大きな影響を与える。たとえば量子力学、わたしたちの存在するこの世界が、微視的には本質的に不確定であるという知見。あるいはバタフライ効果、微小なランダムネスはしばしばカオス的に増幅し、未来はまったく予測不能なものになる。作家はかならずしも科学を理解しているわけではないけれど、科学が提起する哲学のほうはよく知っており、それらのモチーフはときに主題となり、そしてそうはならなくとも、物語の随所に暗黙的にあらわれる。

 

ご存知の通り、もちろん逆の影響もある。SF 作家が提示した未来像が科学の方向性を決め、新しい研究のテーマを切り拓く。人工知能が曲がりなりにも実現するはるかに昔から作家は人工知能を扱い、月に行くはるか前から宇宙はよくある旅行先だった。その流れで科学者は、あくまでいち作家の定義にすぎないロボット三原則なるものをそれなりに重視したり、火星に住む方法を真剣に議論したりした。

 

さて。こんなふうに科学と SF は共生関係にある。SF は科学に着想と夢を与え、科学は SF にまた着想と、そして具体的な技術描写を与える。具体的な技術が完成すれば SF はリアリティを増し、そして技術の現状が、SF に新しいテーマを与える。そのはずだった。

 

だがいま作家は、人工知能の出てくる SF を書きにくいと主張する。これほどしっかりと技術が定義され、AI の得意なことと苦手なことが理解され、問題と利用法に関する明確な議論が可能になったこの現代に、むしろそれを、小説の題材にしにくいものとして考えるようになっている。

 

それはなぜか。普通、逆ではないのか。そうしばらく思っていたわたしだが、最近、ようやく理由が分かってきた気がする。

 

現実が SF なのはいいことだ。わたしは SF が好きだし、ただ生きているだけでその成分を摂取できるのであれば、素晴らしい世の中だと思う。SF が好きなひとはきっとみんな同じことを思っており、現在の技術の行く末をさかんに想像している。現実がより面白いものになる日を待ちわびて、科学技術の一刻も早い発達を、無責任に応援している。

 

そしてそれは、フィクションとしての SF が必要ないということでもある。SF 的ヴィジョンはかねてフィクションの専売特許であり、フィクションでなければ摂取できない成分だったけれど、いまではそうではない。現実を見ていれば面白いのなら、フィクションに頼る必要はない。

 

そしてフィクションがその優位性を主張するには、現実をはるかに超えていかねばならぬ以上、現実の発達とはそのまま、作家へのハードルとして機能している。