書くことについて書くことについて書く

最近のこの日記はなんだか文章生成 AI のことばかり書いていて、正直言って、面白くない。昔は面白かったかと言えばそんなことはないと思うが、それはともかくとして最近はダメダメだ。

 

なぜそんなことになったかと言えばもちろんわたしがそういうことばかり考えているからで、つまり振り返ってみれば、あれはわたしに結構な衝撃を与えたわけだ。衝撃を受けたのはなにもわたしだけではなく、やつらの出現からもう半年近く経っているのにもかかわらず、いまでも SNS はやつらに関する話題で盛り上がっている。技術的な意味でも社会応用的な意味でもはたまた哲学的な意味でもやつらには無限の話題性があり、尽きることのない話題とはわたしたちネットの住人の大好物である。

 

さて。とはいえわたしも書き飽きた。それ以外の話題はないのかとよく思う。思うけれど結局話題はないし、ないものをひねり出すのも大変だから、結果としていつもやつらの話に甘えてしまう。無限の話題性を持つ言語モデルという対象は、日記を書き続けるという制約の上で、なかなかどうして都合がいい。

 

やつらの話をしていると、感じることがいくつかある。その中でも一番は、なんというか、オリジナリティのようなものが出しにくいということだ。それもそのはず、言語モデルと人間の執筆ととかいった話は全世界でのホットトピックだから、わたしが考えるようなことはほぼ間違いなく、より影響力のあるだれかがすでに考えて、発信している。しこうしてわたしの日記は、いつもだれかのことばの焼き直しのようになってしまう。

 

わたしはわたしの分析力を特別だとは思っていない。だからやつらについて話している以上、独自性が出せないのは仕方がない。オリジナリティがないという理由で考えを歪めるのはもっと良くないから、特別なことを言おうと試みるのも気が引ける。試みれば、きっとわたしは自分の発言に固執し、それを正当化するための無理な論理を組み上げつづけることになってしまう。

 

というわけで。やはりわたしは、文章生成 AI 以外の話題を見つけるべきだ。そして困ったことに、題材を探すのは、以前のわたしにとってよりいくぶん難しい課題になっているように思える。

 

書くことが思いつかないとき、わたしは文章を書くということについて書いていた。書くのは毎日やっているから、なにも思いつかなくても手だけは動く。だが世界は変わり、書くという題材はそのまま、文章を自動で生成することという題材と不可分になった。言語モデルの話題にいっさい触れずに、書くということについて書くということは、このご時世、はたして可能なことだろうか?

 

やつらがわたしの思考を変質させ、いまでも頭のいくらかを占めている以上、やつらに触れないことは不可能であり、そして、不健全でもある。だからきっと、あのつまらない話題たちと、わたしはしばらく付き合い続ける羽目になる。