根本理解

数学なんかをやっているとなかなか気づかないことではあるのだが、自分のやっていることの根本にある概念について、わたしたちは必ずしも完璧に理解していなくてもよいようだ。というより、理解など現実的ではない、と言ったほうが正確だろうか。世の中のほとんどのことは相当に高いレイヤーで回っているわけで、逆に言えば、自分の行為を根本から完璧に理解しようと思えば、数学などというきわめて原始的ないとなみに骨を埋めるほかはないのだ。

 

「生物学を極めると化学になり、化学を極めると物理学になり、物理学を極めると数学になる」。広く言われているその言説は、もちろん数学が偉いということを意味しない。物理学を極めると数学になるということは、逆に言えば普通に物理学をするぶんには数学など不要だという意味なのであって、その証拠に物理学者は特定分野の数学者が見たら目を剥くような飛躍した「数学」を使っているのにもかかわらず、物理学をちゃんと回すことに成功している。

 

さて。学問の話からは離れて、似非学問の話をしよう。似非学問は学問ではないから、学問に求められる論理性を持っていない。持っている場合もあるが必ずしも持たなくてもいい、という意味ではなく、単に、持っていない。というのは、学問レベルの論理性が仮にあったとしたら、それは自動的に学問になってしまうからだ(学問レベル、とは必ずしも数学レベルを意味しないことをここで断っておこう)。

 

最たる例は疑似科学と SF 小説だ。疑似科学は、学問で用いられる単語を曲解するかあるいは論理の繋がりを破綻させることによって、みずからを科学に似せている。SF 小説は疑似科学よりはるかに多くの手法を用いるが、中身のないあるいは破綻した概念を中心に据えるという点においてはだいたい、疑似科学と同じだ。最大の違いはおそらく SF 作家は自分の嘘に自覚的であるという点だが、それはべつに、似非学問それじたいの論理展開に影響を与えるものではない。

 

設定を詰めすぎるな、とはこと SF の分野でしばしばされている忠告だ。設定とはあくまで小説を面白くするための道具なのだから、それを超えてのめり込んでしまえば本末転倒だ。この忠告がとくに SF において意味を持つのは、設定にこだわることがそのまま、この世界の法則を新たに記述しなおすという壮大ないとなみにつながってしまうからだろう。いくら作家が偉大とはいえ、数百年にわたる科学者たちの叡智の結晶は、ひとりの人間がそう簡単に再構築できるようなものではない。

 

つまり作者にはきっと、世界を作る能力と同じく、世界の不備を誤魔化す能力が必要になってくる。

 

数学の徒として、わたしはそういうことを潔しとしてはこなかった。わたしの手で書かれるすべての文章は、それを完全に理解したうえで書かれるべきだという信念があった。ほとんどの状況でそれは悪い信念だから、わたしはそこから自由になりたいと思う。だが実際にそうできているかといえば、まあ、難しい。