魔法が科学になり、科学が魔法になるとき

フィクションの中の「科学」には、厳密な理論的詳細が設定されているわけではない。「科学」を語る際に作者は必ずしも詳細を設定しなければならないわけではないし、読者もそれは求めていない。架空の技術を語るという行為にはそれだけの寛容さが必要であって、技術の詳細を求めてしまえば、創作はきわめて不自由なものになってしまう。

 

そうやって自由に語られたフィクションの「科学」を、読者は「科学」だと思って読んでくれる。というのも創作活動とは根底の原理のすべてを語るべき活動ではないわけで、世界の中の語られていないほとんどの部分は、よしなに動いていると解釈するのがお約束だからだ。

 

フィクションの「科学」の描写は、この信頼契約をある意味悪用しているとも言える。というのも、作者が描きたいと思っている「科学」をどうやって実現すればいいのか、とうの作者すらも分かっていないからだ。突き詰めれば根拠が曖昧なものを扱っているというこの問題を、作者は契約の綾を用いて解決している。すなわち分からないことは、語らなければいいのだ。そうすれば、読者はその曖昧さに注意を払わない。

 

だから「科学」を現実世界に持ってきたなら、間違いなくそれは魔法と呼ばれるだろう。現実世界にはそのような信頼契約はないのだ。そしてあろうことか科学者とは、原理と根拠の厳密性にもっとも厳しい部類の人々だ。根本のところが曖昧なら、彼らは絶対に許してはくれない。

 

さて。似たようなことはサイエンス・フィクションの中でも起きている。ある種の小説は、人類がまったく科学的な(あるいは「科学」的な)説明のつかない現象を観測するところからはじまる。それは超常現象とも呼ばれるし、あるいは未知の文明のもたらした新技術の場合もある。

 

フィクションの中の科学者は、おおかた現実の科学者の類似品と考えてよい。彼らは現代科学の手法を用いて、その意味不明な現象を解析しようとする。そしてそれを原理のレベルへと解体し、新たな理論を作り出そうとする。しかしながらその現実的ないとなみは、ほとんどの場合失敗する。異様な現象は従来の解析を受け付けず、それどころかときに、一切の観測を拒むからだ。

 

言ってしまえばそれは、魔法に対する科学的なアプローチだ。

 

かくして魔法は科学になる。原理の分からないものを解析するとは、成功するか否かに関わらず科学のいとなみだ。そういう努力を描いた物語は、魔法小説ではなくサイエンス・フィクションと呼ばれる。魔法だって科学であると科学者たちは信じていて、そして科学者の出てくる物語は科学の物語なのだ。

 

フィクションの中の現象や技術が、果たして「科学」であるかどうか。それはむしろ、対象の成り立ちには依存しない。それに対し、登場人物が「科学」的なアプローチを取るかどうかだ。解析して解体することが可能な対象なのだと、ひとが信じているかどうかだ。

 

そう考えれば逆説的に、現実に魔法は存在しうるのかもしれない。わたしたちが思考を放棄し、解体することをやめてしまったとき。

 

科学はきっと、魔法になるに違いない。