限界を知る

すごくきれいな絵を描ける AI に脅威を感じないわたしたちが、自分たちよりちょっと文章が上手いだけの言語モデルを前にして、未来に恐れおののいているのはなぜだろう。現実のイラストレーターの仕事を奪い、著作権の運用における実際的な問題を提起しているはずの機械絵描きより、せいぜい仕事のメールを代わりに書いてくれるだけの、しょうもないボットがもてはやされるのは、いったいどういう風の吹き回しだろう。

 

言うまでもなく、それはわたしたちの想像力に原因がある。ことばをアウトプットするというのはきわめて汎用的なツールだから、やつらの存在はわたしたちの生活のあらゆるところを覆す可能性がある。そうわたしたちは思う。すくなくとも、やつらが普及した世界が現在とどのように違うのかについて、わたしたちはめいめい、さまざまな妄想ができる。

 

反面、お絵描き AI はそうではない。やつらはたしかに絵がうまく、「人間の仕事を奪」いこそしているけれど、やっていることと言えば結局、絵を描くだけだ。絵は文章とおなじように身の回りにあふれてこそいるけれど、それを生成する作業がだれの手によるものだろうが、わたしたちのほとんどに関係はない。AI の絵が駅の広告板を飾るようになろうが、ソーシャルゲームのキャラクターの立ち絵がたえず自動生成され続けようが、わたしたちの生活はなにも変わらない。ちょっと、面白いだけ。

 

とまあ、こんな説明はいくらでもできるのだが。

 

わたしが言語モデルをすごいと思うのは、なにも実用的だからではない。というか、翻訳とメールを除けば、そんなに実用的でもない。もっと実用的になるかもしれないけれどそれはまだ先で、分からないことはまだしばらく、普通に調べたほうがきっと早い。

 

代わりに。やつらの原理上の最終到達点に、わたしは興味がある。やつらが言語モデルである以上、やつらの終着点とは言語を完全にモデル化することだろうけれど、それにははたして、なにが可能なのか。

 

やつらは小説の細部を書けるだろう。綺麗な情景を描写し、自然なセリフで行間を埋められるだろう。あるいは正確な検索能力を手に入れ、情報の海の中から信頼できそうなものを探し出し、いまのようなまことしやかな嘘をつかなくなるかもしれない。それは文章力や読解力の領分であって、それすなわち、求められているのは言語の正確な操作だからだ。

 

だが。言語の正確な操作とは、いったいどこまでを指すのだろうか。人類のいとなみのうちのどこまでが、言語能力の範疇にあるのだろうか。これまでなら答えの出なかった問いだが、やつらの終着点はきっと答えてくれるだろう。自らの限界を、世に示すことによって。