唯情報論

AI に感情は宿るのか――。人工知能というアイデアの黎明以来、絶えず問われ続けてきたこの問いに、どうやら社会は身も蓋もない答えを与えようとしている。

 

去年あたりから、AI は会話可能な存在になった。驚くべき技術が発表され、実際に使って楽しめるようになった。それが実際に世の中にもたらす変化はきっと比較的ゆっくりだから、今後の流れを見守るとしよう。しかしわたしたちの認識は、世の中そのものとは違って、急激に変化した。

 

いま主流のチャット AI は、感情的に振る舞うように作られてはいない。だからそれらはなかなか、感情という文脈では語られない。しかしながら、もし感情的なことがらに関して同等の精度で学習を行ったなら――あるいは単に、やつらの出力形態を表面的にいじくり、感情的な表現をするように仕向けたのなら――わたしたちが特定の AI を、感情を持つ主体だと考えるようになる未来とは、動かしがたいまでに現実的に見えてくる。

 

感情を持つかのように振る舞う AI とはもはや、SF にだけ許された特権ではなくなった。社会はそれを夢物語ではなく、現実の脅威としてみなすようになった。そしてだからこそ、冒頭の問いに結論が出た――機械が感情を持つかどうかとは、機械の出力に人間が感情の存在を見出すかどうかという、人間側の問題に過ぎないのだと。

 

感情の正体とはなにか。AI の発達を待たずして、それは繰り返し問われ続けてきた問いだ。物理学者はいつも、その問いに対し最もラディカルな答えを返し続けてきた。唯物論。感情とは脳内物質の作用にすぎず、そのすべては突き詰めれば、粒子間の物理的な作用の帰結として原理的に説明可能なのだ、という態度だ。

 

唯物論という信仰を受け入れるかどうかはひとそれぞれだ。物質を超えた観念のようなものがあり、それが人間の自由意志やら感情やらを直接的に規定している――という態度だって、物理学者は馬鹿にするだろうが捨てたものではない。だが、こと人工知能の感情という文脈においては、わたしたちは基本的に唯物論に似た考えを採用している。人工知能とは純粋に情報的な対象なのだから、そのなかに宿るあらゆるものは、情報科学によって説明されうるはずだ、と。

 

唯物論ということばを真似て、これを「唯情報論」とでも呼ぼうか。

 

唯物論を拒絶する人間が、なぜ唯情報論なら受け入れるのか。物理と情報は、シュレディンガー方程式と二進表現は、どちらもそれが対象とする世界の物事を根本的に説明するモデルである。物理世界で起こるあらゆることを物理法則へと帰着することと、コンピュータの中で起こるあらゆることを情報の基礎理論へと帰着することとは、いったいなにが違うのだろうか。

 

人間が作った体系かどうか。そうかもしれない。自然からの帰結である物理法則と違って、人間はコンピュータをそう動くように作った。だが最も大きいのはおそらく、わたしたち自身の存在が理論の対象に含まれるかどうかだろう。

 

つまるところ、物質と違ってコンピュータはけっして、わたし自身にはならない。AI の感情が説明可能だと期待するのは、わたしたちが AI の感情を、けっして味わわないことが保証されているからかもしれない。