評論家としての知能

星新一賞という SF 小説の賞は、人工知能による作品の応募を認めている。長らくの間そのルールは単に、わたしたちをほんのりと笑顔にさせてくれる粋な一文に過ぎなかったわけだが、最近はどうもそうでもないようだ。去年の初め頃、AI がじゅうぶんにこなれた文章を書けるようになってからというもの、人間と人工知能の共作がいくらか応募されるようになってきたらしい。

 

そうしてつくられた作品のうちまともに小説として成立しているものは、もちろんまだ人工知能の作品とは言い難い。現段階の人工知能はストーリーを作れず、一見こなれているようでよく読むと支離滅裂な文章を生成するから、小説にするには人間が重要な部分をほとんど考えてやる必要がある。人間が人工知能を補助しているのか人工知能が人間を補助しているのかという区別はときに曖昧になりうるものだろうけれど、現状それはまだ問題ではない。綺麗な短文を書くことだけができる AI が、人間の作ったストーリーを進めるために、文を生成するという補助作業をしている。

 

しかしながら、技術の進歩とは予測できないものだ。こと機械学習分野に関しては、毎年のようにどこかの分野で巨大なブレイクスルーが起こっている。わたしの研究分野では(そしておそらく、ほかのほとんどの分野では)そんなことはないから、不可能が可能になるあのスピードに時折あこがれたりもするのだが、まあそんなことはどうでもいい。とにかく、小説を書ける人工知能はまだ遠いかのように見えて、案外すぐに生まれるかもしれない。

 

そんなものが本当に実現されるのか、実現されるとしてそれはいつなのか……という問題は脇に置いておくことにして、実現された後のことを考えよう。人工知能の進歩は予測不能だけれど、ひとたび人間並みになれば、人間をはるかに超えてゆくのにそう時間はかからないだろう。星新一賞をめぐって人間と AI が争う期間は数年で終わり(その貴重な時期を、両者きちんとせめぎ合って過ごしてほしいものだ)、気づけば実質的には AI どうしが争う賞になる。人間の応募もできるけれど、とうてい機械には敵わない。計算資源さえあればいくらでも生成される文章を人間の審査員はとても読み切れないから、おそらく選考過程の多くの部分もまた、機械にとってかわられることになる。

 

つまり。AI が創造者となるのとときを同じくして、AI はまた評論家にならなければならないわけだ。

 

ものすごく雑な言い方をすれば、現状の機械学習モデルは内部に評論家を宿している。機械が作家になる未来が現在の技術の延長線上にあるのだと仮定すれば、機械が評論家になるのに技術的困難はないだろう。けれど人間の一部は、おそらくそれを受け入れられない。機械の作品を面白いと言うこと以上に、機械に自分の作品を評価されることを彼らは嫌うだろう。

 

とはいえ、解決策があるわけではない。十分に発展した技術の前に、従来の人間は無力だ。だから結局、歴史上何度も繰り返されてきた構図がここでも顔を出す。機械に評価されることを拒む人間は単に、老人と呼ばれるわけだ。