without understanding

自分のやっていることの原理を、すべて理解しておきたいというこの気持ちは、きっとわたしたち数学の徒に特有の価値観なのだろう。世の中には、理解なしに回っていることがいくらでもあるし、そういうものに従事するひとが、自分がやっていることを本当の意味では理解していないということについて、引け目を感じているとは思えない。

 

理解せずに平気でいることを悪だと言い張るのは、たぶんわたしたちの悪い癖だ。たしかに数学は、理解していなければ回せない。すべての概念のすべての定義を理解しなければ、議論を追うことも定理を取り扱うこともできない。分からなければ仕事にならないのなら、きっと不理解は罪だろう。だがすべてを根本からわかっていなくても良い、数学以外のあらゆることにまで、わたしたちの理屈を押し付けるべきではないのだ。

 

それはさておき、理解せずに物事が回るとはやはり不思議なことだ。不思議だなんだと言ったところで現実にそうなのだから受け入れるしかないのだが、不思議なものは不思議なんだから仕方がない。世の中の大部分は数学のように単純ではなく、したがって一生をかけたところで理解し切るなど不可能だ……という理屈は理解できる。だが理解が追いつかないという消去法の原理は、理解しようとしなくとも物事がうまくいくという都合のいい事実を保証してはくれない。

 

不思議なことを前にしたなら、わたしたちは古来からそうしてきたように、畏敬の念を抱くべきだ。ひとりの人間がすべてを理解するという属人性の局地から一歩でも踏み出したものには、きっとすべからく。そこには数学よりはるかに成熟した社会がある。ひとひとりがすべてを執り行うという究極に原始的な世界には、けっしてありえないものがある。その意味できっと、数学とは未熟である。

 

そして、逆に考えれば。すべてを理解することを数学が是とするのは、数学があまりに未熟な学問であるがゆえに、ちっぽけなひとりの人間にも最先端に至るすべてを理解してしまえることの帰結だとも呼べるのではなかろうか。みずからの思考のみを武器とすることで、ほかのどの学問よりも奥深くへと単身で進むことができる身軽さとは、わたしたちが未開で、集団を動かす方法を知らないということの裏返しでもあるのだ。

 

もし数学がもっと複雑であったのなら。だれも数学を進められなくなる、と数学者は言うだろう。理解をベースとする数学の展開は、実際にいくつかの分野では、最先端へと至る道からほとんどのひとを振り落とすうえで大きな役割を果たしている。

 

しかしながら、こうは考えられないだろうか。数学がもっと複雑になったとき、数学はほかのすべてと同じように、理解を必要としなくなっているかもしれない。理解を経由しない体系が生み出されているかもしれない。

 

その世界の数学は、いまの数学の徒にとって楽しいものなのだろうか。数学がそうなったとして、わたしはその事実を受け入れられるだろうか。分からない。数学にはすべてを理解したいひとのための最後の聖域という側面があり、わたしがそのタイプの人種なのかは、自分でもよくわからない。

 

とはいえ。そうなった世界は不思議ではあるから、そうなった暁にはきっと、畏敬の念を抱くべきではあるのだろう。