解さないことを解す

わたしには美術がわからない。音楽もわからないし、工芸もわからない。この絵がいいとかこの曲がいいとか誰かが言うのを聞いて、わたしはなるほど、そのひとはこれをいいと思っているのか、と思う。世間一般的に良いとされている芸術を見て、わたしは「良い」と思う代わりに、世間が「良い」と考えるものの定義の一部を知ることになる。

 

けれどわたしはきっと、すべての芸術を解さないわけではないと思う。わたしは小説の良しあしを、美術よりはまだわかる気でいる。詩もなんとか、わかることもある。文語で書かれた短歌は分からないけれど、現代短歌ならわかるものもある。仮に数学を芸術ととらえるのならば、数学の定理の綺麗さを、わたしは評価することができる。あるいは……こんな例でもいい。ラーメンの美味しさを、わたしは比べてみることができる。

 

わかる芸術があるからと言って、それで別の芸術がわかるようになるわけではない。絵画に関する表現が小説に登場したとき、わたしはその表現の美しさをたしかにきっと理解する。けれどもそれはあくまで文章の美しさであって、絵画の美しさではない。分からないものを分かるもので説明されても、分かるのは説明そのものだけだ。説明されている対象は、依然として謎のままだ。

 

しかしながら、逆に考えれば。わからない芸術がわからないとはどういうことなのかを、わかる芸術の方で例えてみることはできるはずなのだ。

 

わたしが美術を分からないのと同じくらい、小説を分からないひとを想像してみよう。そのひとは決して、ストーリーを理解できないというわけではないだろう。中世の宗教画を見たわたしがそこに人間型のなにかが描かれていることを理解するのと同じように、きっと彼らは文章がなにを表現しているのかを理解している。

 

けれどその理解は、彼らの心を動かすには至らない。万人が共感するとされている登場人物に彼らはまったく共感しないか、あるいは共感はするものの、共感という体験のなにが良いのかを理解しない。物語が立ち向かっている世の中の問題を、彼らはきっと理解している。理解しているけれど彼らは、なぜ作家がそれを表現するためにストーリーを使おうとするのかを理解しない。そんな回りくどいことをしなくても、直接そう書けば済む話じゃないか、と思う。

 

以上はすべて、わたしが分からない芸術たちからの類推だ。現実に小説を好まないひととわたしは小説の話をしたことがないから、本当に彼らがこういうふうに考えるのかも分からない。けれどひとつの可能性として、こういう理解をすることはできる。そして美術や音楽を解するひとたちにとってわたしとはどんな存在であるのかを、想像してみることはできる。

 

わたしには美術が分からない。それはつまり、わたしには美術を解するひとの気持ちが分からないという意味でもある。どう頑張って想像してみたところで、わたしは決して、美術を解するひとと同じように美術を鑑賞することはできないだろう。

 

けれど。美術を解するひとが、美術を解さないひとのことをどう考えているのかという意味での「気持ち」には、案外簡単に近づけるのかもしれない。