原理などない、と言いたい

読ませなくていいことは書かなくていい。書かなくていいことは設定しなくていい。設定しなくていいことは考えなくていい。分かってはいるけれど、考えないというのは難しい。

 

異常な作中世界を、新しく設定する場合の話をしよう。とりあえずそこはなんらかの意味で異常である必要があるから、どういうふうに異常なのかを考える。これは必要な思考だ。しなければ、ろくに世界を設定したことにならない。

 

そこでなにが起こるかを考える、それも必要な思考だ。物語とは基本的にはなんらかの事件を軸に展開されるものであり、作者はその軸となる部分を設定せねばならないし、異常な世界で物語を興す以上は、その軸は異常性に紐づいているのが望ましいだろう。軸さえ設定できればそれでいいかと言われればそんなこともなく、物語の道中で展開されるあらゆる小場面は、それがその世界の異常性に依存していればいるほど、作中世界に重厚感を与えてくれる。

 

けれども。理論科学の徒としてのわたしは、異常な世界のビジュアルや世界の異常性を際立たせるエピソードを考えるのよりも先に、その世界の原理が気になってしまうようだ。

 

原理がわからなければ、そこで起きることはわからない。わたしのそういう価値観はおそらく理論屋特有の価値観で、だから新しく世界を構築するのなら、まずはその動作原理を考えるところから始める。原理がわかれば、それを組み上げて世界にできるだろう、と考えてのことだ。

 

その態度はもちろん、科学を前にしたときの真摯な態度だ。そして創作を前にしたなら、そうはならない。自然というものはなかなか良くできていて、原理のレベルにまで解体して考えたところで、とくに矛盾したり破綻したりはしない。だがわたしたちが適当に作った世界は、とくに異常性を指向して作り上げた世界は、ちょっと考えるだけで簡単にボロを出す。原理を見抜いて世界を作るつもりだったのに、出来上がるのはあらゆることがすべて等しく簡単になってしまう、無制約のつまらない世界だ。

 

原理という、作中で必ずしも深入りしなくてよいことを気にして世界を壊してしまう。それこそ、本末転倒というものだ。

 

創作にはおそらく、原理を気にしない考え方が必要になる。物事の原理に立ち戻ることなく、その世界の異常性そのものから、そこで起こりうることだけを想像する考え方だ。もっとも理論屋にそれは、最初は難しいかもしれない。新たな知識を身につけるのは簡単でも、考え方の癖そのものを身につけるのには、少々時間が要る。

 

だが、きっと無理ではない、とは思う。なにせ科学の領域を見ても、きっと理論屋以外はそうやって結果を出しているのだ。