描写の多寡

詳細とはどれくらい描写すべきものなのだろう。ものごとの本筋に直接は関係しないけれどもその説得力に奥行きを与えてくれるような、細かい情景やエピソードを、文章はどれくらい明示すべきなのだろう。

 

場合による、というのがもちろん答えだ。世の中のほとんどのものは時と場合による。世の中のほとんどの正しいものとは TPO をわきまえたもののことであり、時代と状況が違えば、善悪や正誤のほとんどは簡単に反転する。世の中に普遍的な法則などなく、かりにあるとすれば、世の中に普遍的な法則などないという法則だ。

 

さて。とはいえそうは言っていられない。そうやってすぐに哲学的な根本論を持ち出すのは、ものごとを深く考えないための言い訳でしかない。そういうことをするひとたちは、難しいという結論を出せる寛大な自分に酔っており、安易な結論に飛びつくことなく答えを保留できる自分を賢明だと勘違いしている。難しいものを単に難しいというだけなら猿だってできるという猿でもわかる事実を、彼らは単に、知らない。わたしもそうだったから、よくわかる。

 

場合による、というのは確かに答えだが、では場合とはなんだろう。たとえば物語のあらすじを書くのなら、詳細は極力省くべきだ。これは簡単。では本番ならどうか。難しい。場合による。分からない。

 

こういうときは、だれかを教師にするに限る。文章の上手いひとが、わたしが好きな文章を書くひとは、どうしているだろうか。こんな目で世界を見ていると、気づくことは多い。だれがどれだけ、世界を描写しているか。

 

で。当然のごとく答えは、ひとによる、ということになる。

 

なんでもいいから本を手に取ってほしい。なくても話の筋は通るような、非本質的な情景やエピソードを探してほしい。作者によっては、そういうものが大量に見つかる。紙面に占める純粋な面積で言うなら、ほとんどそういうものだけで構成される作品だってある。反対に、そういう描写を極力省いて、本当に重要な情報だけをストレートに伝えてくる作者だって、またいる。

 

どちらがいいというわけではもちろんない。どちらのタイプの作者も、時と場合をきちんとわきまえている。どちらのタイプの作品も、それはそれで面白いし、美しい。

 

だから問題はきっと、描写の多寡という要素が、意図されての効果であるのかどうかだ。

 

描写の少ない文章には、描写の少ない文章に書きうることが書ける。事実をすっきりと理解してもらいたい状況で、そういう語りは用いられる。逆に描写の多い文章は、美しく、現実に肉薄する臨場感があり、世界のリアリティを感じさせてくれる。描写は、読者の感性を刺激することができる。

 

文章が上手いということはきっと、そのどちらもできるということに違いない。だが特定の文章を見れば、それらのうちの片方しか使われていないことが往々にしてある。ならばそういうことをする作者は、意図してその片方を使っているのか。あるいは、描写の多寡そのものが、そのひとの作風として固定されたものなのか。

 

どちらもできるに越したことはない。だがもしその片方だけでもなにかを産み出せるのだとしたら、それはわたしにとってひとつ、肩の力を抜いていい要素になる。