卒業式 ①

 卒業式があった。一応、行ってきた。

 

 疲れた、というのが率直な感想である。べつになにか特別な面倒事が起こったわけでもないし、気を張り詰めていたわけでもないし、だれかの話が極端に長かったわけでもないが、ただ疲れた。昨日まで旅をしていたので、単にもとから疲れていただけなのかもしれない。

 

 それはさておき。卒業式について最初に出てくる感想が疲れたかどうかだ、というのはいささかスコープのずれた話である。ずれているというのはつまり、それはどんなイベントでしたかと聞かれてイベントそのものの困難さを語るのが正解になるカテゴリーに、卒業式は含まれていないということである。現にいま一番感じているのが肉体や精神の疲労なのだから仕方がないことなのだが、それでももうすこしなにかちょっと、エモーショナルでセンチメンタルなエクスプラネーションがあるだろう、という話である。

 

 ないのだから仕方がない。

 

 大人はこれを門出だと呼ぶ。ここで言う大人というのは、卒業をしないのに卒業式に参加して、卒業生を眺めたりスピーチをしたりするひとびとのことである。わたしももうじゅうぶん大人の年齢ではあるから、卒業式というイベントが門出と呼ばれることになっているという共通理解を共有してはいる。

 

 もちろん卒業する側としては、これを未来へのスタートであるというふうに理解することはない。この式典はあくまで、卒業という事実を再確認するための儀礼的なものである。卒業生が重視しているのはもっと別の部分であって、その大部分は友人との別れを惜しむことだったり、正装をすることであったりする。だから式典とは、身に染みることのないことばを儀式的に浴びせられるという意味で、単に退屈な時間である。

 

 けれどもその空虚な退屈さのなかに意味を見出してしまうのが卒業のセンチメンタリズムであり、ああして窮屈なスーツに身を包んで手足を所在なくもぞもぞと動かしている時間にまでわたしたちは、まるでそれが失われた古代の儀式の、説明はつかないが重要ではあるらしき一部であるかのような、神聖でオカルトで無根拠な重要性を感じ取ってしまうわけである。

 

 感じ取らないのだから仕方がない。

 

 儀礼的な手続きということばはよく聞くが、この場合の儀礼とは単に、手続き的な儀礼にすぎなかった。儀礼と手続きの違いとはつまり、儀礼にはそれに紐づけられたなんらかの文化的な感情の発揚が必要になる点にあるが、今回の卒業にそれはなかった。それは今回の卒業がわたしにとって、卒業という概念に通常は一番強く紐づけられるはずのある種のことを、ほとんど意味しなかったからだろう。