「科学」と魔法の相違点

現代科学が科学たるゆえんは、それが観測と論理の二本の柱にのみ支えられている点にある。観測はすべて定められた手続きに基づいて行われ、論理はやはり定められた演繹技術によって進められる。定められた手続きによる観測は再現性を保証し、そして演繹手法は論理性を保証する。科学の導き出す結果にわたしたちが信頼を置くのは、それらの手続きの健全性を信仰するからだ。言い換えればわたしたちは、それらの手続きに忠実に従っている限り、そうそう変なことは起こせないと信じているからだ。

 

創作の中で扱われる「科学」は、それらの健全性を満たしていない。したがって現実科学の文脈だけから判断すれば、創作の「科学」はまったく科学ではない。「科学」は観測に基づいておらず、その代わりに作者の想像に基づいている。「科学」には論理性がないか、あっても読者を世界に引きこむための表面的なものだけだ。

 

逆説的に言えば、だからこそ「科学」は変なことを起こせる。科学の代わりに「科学」のある世界では、およそ現実に起こりえないか、少なくとも現状起こっていないなにかを設定することができるのだ。そういう意味で、「科学」は科学というより、魔法に近いかもしれない。「科学」とは厳密な手続きと結果の対のことではなく、普通に考えれば起きない、あるいはまだ起こせていないなにかを起こすための舞台装置なのだ。

 

さて。ではなぜ、「科学」は魔法ではなく科学と呼ばれるのだろうか。科学の原則に基づかない「科学」を、それでも科学っぽいと感じるのはなぜだろうか。それはもちろん、わたしたちが科学っぽいと感じるものは、観測と論理に基づく科学の原則とはすこし異なるからだ。では具体的に、科学っぽさとは何なのか。それはなぜ、魔法ではいけないのだろうか?

 

「科学」と魔法の相違点はなにかという問いには、簡単に思いつく答えがいくつかある。実際、ひとつを挙げてみよう。

 

今日挙げるのは、魔法は起こすことのできた事象そのものにのみ興味を持っているのに対し、「科学」はそれを原理へと解体するという点だ。たとえば誰かが杖を振って、正面にいる誰かを殺すことができたとしよう。この時点で、それは間違いなく魔法である。状況の主眼は単に、人間を殺すことができるということにあるからだ。

 

魔法の世界では、この話はそれでおしまいだ。杖の特定の動かし方と呪文の詠唱方法があって、その通りに行動すれば人を殺すことができる。杖を振った、人が死んだ、それでおしまい。それ以外に扱うべき問題は何もない。殺した相手の死因は……そんなことを考える必要はないわけだが、もし必要なら呪死とでもしておけばよろしい。

 

一方、「科学」はそれでは満足しない。死因は設定されなければならない。窒息死でも急性心不全でも血液凝固でも、あるいは体中の原子という原子を反物質に置き換えることでもなんでもいいが、とにかく設定されなければならない。もし呪死を死因にしたいのならばそれも結構、だが呪い殺すとはどういうことなのかを定義せよ。でなければ、「科学」の読者は満足しない。

 

いったん死因が確定すれば、「科学」はそれを利用しようと試みる。人体の原子を反物質に置き換える技術を用いて、人を殺せたとしよう。では相手が無機物ではどうか。それは新しい発電方式あるいは兵器をもたらさないか。そういう能力者が存在するとして、彼らを組込んだ社会制度とは何か。反物質の量産にはなにが必要か。魔法の世界でそんなことを考えるのは野暮だが、「科学」の世界ではそういうことを考えてもいいし、むしろ考えることによって世界はよりリアルになるのだ。

 

「科学」の世界では、考えればすぐ思いつくことは誰かが試している。考えられるものは実現されていなければならない。そしてだからこそ、各種のパラドックスが問題になる。矛盾を放置しておくことはできないからだ。

 

そう考えれば。「科学」にあって魔法にないのは、できることは望む望まざるにかかわらず起こしてしまうという、人類の賢さへの諦観であるとも言えるかもしれない。