境界 ②

 もちろん、抱負などというものはない。

 

 わたしは意識が低いです、というアピールではない。そういうふうな発言をしておけば、経営者を除く世間の全員からの薄くて広い信頼を得られるだろう、という打算でもない。わたしにないのはあくまで抱負そのものである。これから先になにを目指すかとか、二者択一を迫られたときにどういう基準で選択を行うかとか、そういう意志のほうである。

 

 いや。嘘をついた。そういうものはたしかに、まったくないわけではない。人生はなるようになるものだ、来年のことを言うと鬼が笑う、と言って世間の情勢などどこ吹く風、咥えタバコで飄々と過ごしていても、行動の基準はそれなりにある。

 

 とはいえそれはあくまでわたしがわたしであることのみに紐づいている性質であって、卒業とか就職とかそういう境目がとくに影響を与えるようなものではない、というのが、抱負がない、ということばの意味である。

 

 ならばこれもまた無意味な境界なのかもしれない。就職はわたしの生活様式を多少は変えるかもしれないが、それ以外の部分を変えるようなイベントだとは限らない。それを期にみずからなにかを変えるという決意を固めないのであれば、そして新生活がわたしの精神をぐにゃぐにゃに歪めてしまうほどには苛烈なものでないのであれば、就職という境界もまた、誕生日や正月とおなじように、辞書的な定義以上のなにかを意味するものではないのかもしれない。

 

 まあ、それはおのずと分かる。時間が理解させてくれる。わかった頃には日記をやめていると決まっているのには若干の寂しさがあるような気もするけれど、まあ本当に書きたいことがあるなら、そのときあらためて書けばいい。

 

 だからいまは、いまのことを書こう。月並みな問いだが、新しい生活に不安はないのか。

 

 ないといえば嘘になる、とつづけるのが普通だ。だが、あまり嘘にはならないような気がする。すくなくとも、自分の心の理解できる部分を見渡してみた範囲では、あまりそういうものは見当たらない。

 

 そればかりか、捉えようによっては二十一年間続いたこの学生という身分を脱するということを、わたしはこれといって大きな断絶だとみなしていないような節さえある。

 

 これはやせがまんだろうか。あまりそんな気はしない。これから起こることをわたしが単に正しく想像できていない、ということだろうか。そうかもしれない。だがかりにそうだったとして、時が経てば現実のほうからやってくるものを、わざわざいま想造で補わなければならない道理もない。